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    正本堂建立御供養趣意書


 このたぴ、日蓮正宗総本山に、正本堂が建立されることになり、私たちの真心からの御供養を、ささげたい、と存じます。
 さる二月十六日、日蓮大聖人御誕生の佳き日を選んで、総本山において、第一回の正本堂建設委員会が開かれ、席上、日達上人猊下より、正本堂の意義について、つぎのような甚深の御説法がありました。
                               
 「
正本堂につきましては、いちばん大事な問題は、どの御本尊をそこに安置申し上げるかということです。大聖人おおせの根本である戒壇建立とは、広宣流布への偉大なる御相伝でございます。これについて、一般の見解では、本門寺の中に戒壇堂を設けることであるといっているが、これは間違いであります。堂宇の中の一つに、戒壇堂を設けるとか、あるいは、大きな寺院の中のひとつに、戒壇堂を設けるというのは、小乗教等の戒律です。小乗や迹門の戒壇ではそうでありましたが、末法の戒律は受持即持戒であり、御本尊のおわします本堂が、そのまま戒壇であります。
 したがって、本門寺建立のときは、戒壇の御本尊は、特別な戒壇堂でなく、本堂に御安置申し上げるべきであります。それゆえ、百六箇抄に 『
三箇の秘法建立の勝地は、富士山本門寺本堂なり』と大聖人様のおことばが、はっきり御相伝あそばされております。また、同上百六箇抄の付文に 『日興嫡嫡相承の曼茶羅を以て、本堂の正本尊と為す可きなり』と、こう明らかにされていおるのでございます

 戒壇の大御本尊様が、いよいよ、奉安殿よりお出ましになって、正本堂に御安置されることを、正式におおせくだされたのであります。かねてより、正本堂建立は、
実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになったのであります。
 正本堂建立の意義は、まことに甚深であり、その御供養に参加できる私たちの大福運は、なにものをもっても、たとえようがないと思うのであります。ここに僧俗一致して、この壮挙を達成したいと願うものであります。

 正本堂建立の位置は「大御本尊は客殿の奥深く安置する」との御相伝にもとづいて、大客殿の後方に建てられることになっております。近代建築の枠を集め、資材には五大陸の名産を用い、世界各国の石を集めて礎石とすること、前庭には「涌出泉水」の義にちなんで、大噴水も造られることになりました。まさに世紀の大建築となることでありましょう。
 さて、その御供養につきましては、本年十月十二日、戒壇の大御本尊建立の吉日を選んで十月九日より四日間をもって行ないたいと存じます。

 総本山における大建築についての御供養は、これで
最後の機会となるでありましょう。千載一遇とはまさにこのことであります。末法万年の外、未来までも人類救済の大御本尊を御安置申し上げるこの正本堂建立の大事業に参加できることは、永遠の誇りであり、大福運であります。
 願わくは、おのおの信心の誠を尽くし、全員がこの栄ある大業に参加されんことを望むしだいであります。

  昭和四十年三月二十六日

            
日蓮正宗総本山
               
正本堂建立委員会


    柿沼 広澄
    高野 日深
    渡辺 日容
    佐藤 日成
    早瀬 道応
    佐藤 慈英
    落合 慈仁
    千種 法輝
    前川 慈寛
    阿部 信雄
    吉田 義誠
    早瀬 義礼
    藤本 栄道
    能勢 順道
    前川 慈肇
    大村 寿顕
    菅野 慈雲
    早瀬 義寛
    佐野 瑩道
    八木 信瑩
    笠松 澄道
    北条  浩
    辻  武寿
    和泉  覚
    小泉  隆
    秋谷 城永
    柏原 ヤス
    白木 薫次
    森田 悌二
    平沢 益吉
    石田 次男
    森田 一哉
    小平 芳平
    竜  年光
    多田 省吾
    中西 治雄
    星  生務
    石田幸四郎
    竹人 義勝
    白木義一郎
    山田 徹一
    田中 正一
    宮崎 正義
    渋谷 邦彦
    田代富士男
    渡部 城克
    青木  亨
    鈴木 一弘
    二宮 文造
    星野 義雄
    大野  潔
    原田  立
    井出  繁
    反橋 信一
    真武 正親
    柳沢喜惣次



 昭和四十年二月十六日、第一回正本堂建設委員会において 細井管長が述べられたことは、 「
戒壇の御本尊は特別な戒壇堂でなく、本堂にご安置申し上げるべき」であり、「正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉の仕方はいままでと同じ」、ということでした。
 要は “
奉安殿の延長”、と云うことでありました。これが細井管長の、ご“本意”であったことでしょう。

 しかし、この発言の一部にある 「大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇」との言辞は、その「奉安殿の延長」とは、いささか矛盾していたことでした。
 この矛盾・齟齬の陰にこそ、是が非でも正本堂を本門戒壇堂と位置づけたい、池田会長の強い意図・要請もだしがたい事情が、かいま見えるのでした。前年には公明党を発足させ、破竹の勢いで成長しつつある創価学会の「強い意向」であれば、細井管長としてやむなく、この一言を入れざるを得なかったのでしょう。

 さて この説法を承けて、翌月の三月二十六日に正本堂建立委員会が出した本文書・「正本堂建立御供養趣意書」には、「
実質的な戒壇建立」、「広宣流布の達成」という、細井管長のご意志からは逸脱した言及がなされます。
 しかも「総本山における大建築についての御供養は、これで
最後の機会」であり、「千載一遇」であり、「末法万年の外、未来までも人類救済の大御本尊を御安置」と、その逸脱に拍車がかかるのでした。

 同年九月には、正本堂御供養について「日達、此の正本堂に本門戒壇の大本尊を安置して、末法一切衆生の帰命依止、即身成仏の根源となさんと欲するなり」、「本門戒壇の大本尊を奉安申しあげる清浄無比の大殿堂」、「蔵の宝に執著することなく大本尊に供養して、以て身の福運を安明に積まんことを」とする、細井管長の<訓諭>が発せらました。
 この時も、その訓諭を承けて出された宗務院の院達では 「今回の正本堂建立は宗門僧俗にとって此の上ない誠に重大な事業であります。すなわち、訓諭に仰せ遊ばされてあるように、(略)大聖人の御遺命にしてまた我々>門下最大の願業である戒壇建立、広宣流布の弥々事実の上に於て成就」とされたのでした。

 訓諭における「清浄無比の大殿堂」と、院達における「
大聖人の御遺命」にして門下最大の願業である「戒壇建立の成就」とは、はるか<天地の相違>がありましょう。
 管長の訓諭より宗務院の院達の方が、はるかに踏み込んだ解説をしている事実、これが当時の宗門の状況でありました。

 細井管長ご自身に、お考えを語ってもらいましょう。「
広宣流布を待ってはじめて“本門寺”を建立、戒壇の大御本尊を安置し奉って『事の戒壇』建立という事になるのでございます。それまでは戒壇の御本尊をおしまい申し、固く護る」( 大日蓮、昭和三十四年九月号 )。
 「
先師方が、客殿の後ろの奥深くに戒壇の御本尊をお護り申す、という事を仰せられて居ります。我が本山の先師方のこれが心でございまして、客殿の後に奥深く戒壇の御本尊を蔵し奉る、しまっておく、広宣流布の暁まで しまっておくということになる。戒壇の御本尊は、どこまでも蔵の中にあるのでございます。お出ましは、先程から申す所の、いはゆる広宣流布の暁である」( 同 )と。

 昭和四十一年までの細井管長はこの趣旨で一貫し、宗務院・創価学会の逸脱解釈をやむなく黙認しつつも、自らの発言においては一線を画していらっしゃったことでした。
 ちなみに当時、創価学会の圧力から貫首を守るべき宗務院の要職にありながら、却って創価学会・池田会長に迎合し、“すでに広宣流布よ・御遺命の達成よ”と、貫首を差し置いて逸脱の院達を発していたのは、後に“二冊の悪書”の執筆までした他ならぬ 阿部教学部長(当時)でありました。

                      ( 平成十五年十月三日 櫻川記 )

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