|
実践活動の先例
(略)
以上のごとく、王仏冥合の政体たらんことを願った大聖人の精神は、上代においては、はつらつとして見られたのである。
それが中代以後絶えたるゆえんは、五十九世日亨上人著の史料類聚に、本師がのべられたおことばによって、十分理解できるであろう。
いま、これを引用する。
「大聖人の弘教は慈念の迸るところ、急速なる国家救済にあるが故に、便宜(びんぎ)に従って寸時も逆化の手を緩めず。
清澄に在る時は其の周囲に・鎌倉に在る時は其の大衆に毒鼓を撃ち、遂に時の執権北条家に他教徒と対論を要請せられたるより、此れが国法に触れたりとして流刑死刑に及んだのであるが、三諌の後・官憲やや其の「為国護法」の誠意を認めたるも、所志貫徹は覚束無きを以て遂に政都を去り、山籠以来・更に帝王(みかど)に諌状を作り、門弟子をして献覧に供えられた。
已来、大法広布の暁までは代々の後継法主、此の鴻旨(こうし)を奉体し身命財を抛って、時宜の国諌を為すを宗規とす。
然りといえども乱世に在りては、其の主権の所すら判然せず。悪吏・間を距(へだ)て、容易に願書の受理すら行なわれず。此を以て、公家武家共に其の目途を成すまでには、巨額の資材を以て運動し、必死の覚悟を以て猛進せざるべからず。
他門にして日像の三ちつ三ちょくの如く、日什奏聞記及び・ぼく記に示す如く、日親の文献に在るが如く、困難にして効験甚だ薄く、自門にして日郷日要の如く準備に大苦労を為して所得少なく、況んや戦国時代は上下自他・共に疲弊の極に達し、国諌の大望よりも大金を費して不入の訴訟に成功せざるべからず。
徳川えん武の後は、巧妙綿密なる政策に拘束せられて、僧分は手も足も使えぬ事となって、知らず知らず国諌を閑却するに至り、遂に堅樹日好の如き爆弾漢を生ずるに至ると雖も、如何ともする能わず、徒に官の為す所に放任す。
時なるかな、幕末・内憂外患・天変地妖・興盛にして諌め易きの好時機を迎えて、初めて数箇の諌聖出でて宗意を有司に暢達(ようたつ)するを得たれども、遂に素願は望み遠し。
殊に明治の聖代・民権大に伸張して諸願達成せられざる無きも、此の一願に於いて成就の望(のぞみ)少なき事、戦国・幕政時代に加上す。此を以て、上御一人の聖意を動かす事の容易ならぬに加えて、下億兆の與論(よろん)を改善せざるべからざるの苦難を凌(しの)がざるべからず。幸か不幸か、諌状の急策・暫く絶望に帰す」(以上) (句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
右の御文によって明らかである。これをもって、王仏冥合論の実践活動の先例を終わることにする。
(大白蓮華 昭和三十二年三月一日)
この亨師の言葉に、付け加える何ものもありません。まことに、上代の冨士門流の弘通・諌暁の勢いは強く激しいことでしたが、その後の戦国・徳川・明治から昭和の大戦までの時代においては、その志を色に顕わすこと、「暫く絶望に帰す」の呈でありました。
しかるに、戸田会長は始めて御遺命の事の戒壇・国立戒壇建立を具体的な目標として掲げ、道程を示してその実現に誠心誠意邁進するも途上倒れ、後を襲った池田会長は忽ちに大事の御遺命を放棄、阿諛の宗門また此に与同して今に至るのでした。
今日、御遺命の事の戒壇・国立戒壇建立を目指して邁進するは、不思議・任運にも、冨士大石寺顕正会をおいて他にないことでした。
戻る
|
|
|