|
文化は宗教を必要とするか ( 現代の宗教的状況 )
T 社会の市場化とプロテスタンティズム
( アダム・スミスの分析 )
大変よい助けになる書物があります。それは実は経済学の父と呼ばれるアダム・スミスの「諸国民の富」なのです。(略)
スミスはここでそういう理念や概念の分類を行なっているわけではないのですが、教会ということで二つのタイプの教会があることに気付いております。(略)
国教会というのは、いわば独占企業のようなものであって、教会の会堂も教会税で建てたり、国が用意しているものです。牧師の謝儀もそれでまかなわれるわけです。信者に対する伝道などする必要はなく、その地域に生まれた人は必ずその教会の信者になるわけです。
これでは教会はひとつの機関や制度になり、終いには精神的に枯渇してしまいます。つまり原理的には誰も教会に来なくてもこの制度の中では教会は成立するわけです。
事実私がドイツのフランクフルトで見たゲーテが洗礼を受けたという教会は、何百人も入れるような大きな会堂に数十人の人々が礼拝を守っているだけでした。
これに対して自由教会は、いわば競争社会でして、教会が一生懸命伝道する。牧師がいい説教をする。生きる指針を与える。そういうことをしなければ、誰もその教会に行かなくなるわけです。そして別の教会に行ってしまう。そうしますと牧師の謝儀も出せなくなってしまう。ですから、牧師も一生懸命説教する。つまり説教の質の高さで勝負するわけです。
国教会というのは独占企業状態ですが、自由教会は市場の中にある教会ですから他の自由教会と競争するわけです。信徒たちは教会を選ぶようになる。そしてその教会の会員である自覚が強くなり、また自覚的に教会を支えるようになる。
しかしスミスはこの自由教会の欠点も見ています。それはこの教会の牧師たちが信者を獲得したいあまりに、魔術的な説教をしたりする可能性が出てくるというわけです。「この教会にくれば病気が治るぞ」とか、「儲かるぞ」という類のものです。
このスミスの分析に出てきます二つのタイプの教会が併存していたのが、一七世紀のイギリスのキリスト教の状況でした。
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
アダム・スミスの「教会」への分析は、まことに鋭いものでした。ひとつの宗教が国教となったなら、それは必ず機関・制度となり、ついには“官僚化”し“自己目的化”し必ず“精神的に枯渇”するであろう…と。それこそはすでに人類が共有してきた、<歴史的経験>でありました。
そしてまた、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」ということ。これまた洋の東西をとわず幾多の“辛酸”を経て、わたしたちが学んできた事でした。
“暴力装置”であり“抑圧装置”でもある「王法」が“聖なる”「宗教」と冥合し、批判の許されぬ「絶対的権威」に支えられた「絶対的権力」と化したとき、やがてこの世に“収容所列島”等の<悲惨>が現前するであろうことを、人は歴史から学んできたはず..でありました。
この<難題>は如何にして、回避し得るのでしょうか。「冥合」がもたらす“官僚化” “自己目的化” “精神的枯渇” “腐敗” 等々の将来する<問題>に対し、あらかじめその“処方箋”を提示する“義務”と“責任”は誰が負うのでしょうか。
さて、スミスの分析の鋭さは、それだけに留まりません。他方、「自由教会」の欠点として「病気が治る」とか「儲かる」といった“魔術的な説教が蔓延る”可能性をもしっかりと指摘していたのでした。「運がよくなる」などというキーワードを“切り札”に、会員獲得に奔走するような事態を予見すること、スミスの知性にあっては“掌を見るが如し”であったことでした。
( 平成十四年十二月十八日、櫻川 記 )
戻る
|
|
|