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日蓮大聖人の御遺命
一、本門戒壇建立の意義
個人の幸福は国家と共にある
日蓮大聖人は、本門戒壇を建立して日本および全世界を仏国と化し、全人類を現当二世に救済することを、究極の大願とあそばされた。
ただしこの本門戒壇の建立は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱え奉る広宣流布の暁でなければ実現できない。御在世には未だその時いたらず、よって未来国立戒壇に安置し奉る本門戒壇の大御本尊を二祖日興上人に付し、「時を待つべきのみ」とて、この一大事を日興上人に御遺命あそばされたのである。
されば、本門戒壇建立の御遺命こそ門下にとっての最大事、もしこれを忘れる者あれば仏弟子ではなく、もしこれに背く者あれば魔の眷属と云わねばならない。
大聖人の一代の御化導を拝見するに、建長五年の立宗以来、母が赤子の口に乳を入れんとはげむ大慈悲をもって、人々に「南無妙法蓮華経と唱えよ」と勧め給うと共に、正嘉の大地震よりは、国主への諌暁を連々となされている。
この国家諌暁は、立正安国論をはじめとして十一通申状、一昨日御書、四十九院申状、滝泉寺申状、園城寺申状など枚挙にいとまなく、まさに一代を貫き、身命を賭してこれを敢行あそばされている。
このように、大聖人の御化導が単に個人に対する信仰の勧めにとどまらず、国主に対して国家レベルでの三大秘法受持を迫られているのは何ゆえであろうか。
それは、個人の幸福が、国家と共にあるからである。すなわち国家の興亡盛衰が、すべて国民の幸・不幸に深く関っているからに他ならない。
ゆえに立正安国論には「国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁(のが)れん。汝須(すべから)く一身の安堵(あんど)を思わば、先ず四表の静謐(せいひつ)を祈るべきものか」と仰せられる。
もし他国の侵略によって国が亡び、内戦によって家を失ったならば、いずれのところに生きのびる場所があろうか。ゆえに我が身の安全を思うならば、何よりもまず国家の安泰を願うべきであると示されている。
また同じく安国論に「国に衰微なく土に破壊(はえ)無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定(ぜんじょう)ならん」と。
国家の安泰・国土の静謐があってこそ、初めて個人の身の安全・心の安定がもたらされるのであると仰せられる。
さらに亡国最大事御書には「一切の大事の中に、国の亡びるが第一の大事にて候なり」と。
国家の滅亡は、すべての国民に想像を絶する悲惨をもたらす。ゆえにこれを「第一の大事」と仰せられるのである。
まさに国家は、国民一人ひとりを細胞とする社会的な有機体、一つの生命体といえよう。ゆえに国が亡べば、構成員たる国民一同にその悲惨がおよぶのである。
今日、ことさら国家の存在を軽視あるいは無視しようとする風潮がある。”戦後民主々義などといわれる軽佻の思想がその代表であるが、これら浮薄の人々には、まだ国家というものの本質がわかっていない。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第九章より
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