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「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」
昭和四十五年三月、私は護法の一念を四万二千余字に込め、「正本堂に就(つ)き宗務御当局に糺(ただ)し訴う」と題する一書を認(したた)め、猊座を守るべき宗務院役僧と、池田大作以下の学会首脳、あわせて十二人に送附した。
この書の内容は、正本堂が事の戒壇でないこと、御遺命の戒壇とは国立戒壇であること、そして池田が大聖人を蔑(あな)ずる大慢心の文言を挙げて破し、最後に宗務当局に対し、猊座の尊厳を守るため速かに池田の誑惑を摧くべしと訴えたものである。
当時、顕正会は「妙信講」と称し、日蓮正宗法華講(宗門信徒の総称)の中の一講中という立場であり、講員は七千人に過ぎなかった。
対する池田は、日蓮正宗全信徒を指揮・統率する大権を細井管長から委ねられた法華講総講頭。そして八百万学会員を率い公明党を手足とし、そのうえ誰人も背けぬ「法主」を擁し、その勢いは騎虎を思わせるものがあった。
これに七千の小講中が立ち向うは、竹槍で戦車に向い、小舟が戦艦にぶつかるにも似ていた。恐らく歯牙にもかけず、直ちに宗門追放とも思われた。
だがこの諌暁書は、驕(おご)る池田大作、そして細井管長の肺腑を抉(えぐ)り、大衝撃を与えた。八百万対七千ではなく、「法主」対信徒ではなかった。
「仏法と申すは道理なり、道理と申すは主に勝つ物なり」(四条抄)の仰せを、実感とさせて頂くばかりであった。
恐らく細井管長は、この諌暁書の背後に、犯しがたき御本仏日蓮大聖人、日興上人の御威徳を感じたものと思われる。
送達の翌々日、宗務院の早瀬総監から「直ちに本山に来るように」との連絡があった。この反応の早さこそ、衝撃の強さを物語っている。
四月三日、私は父(当時妙信講講頭)とともに、総本山の宗務院に出頭した。定めて宗務役僧から“宗門追放”が云い渡されると思っていたところ、案に相違して「猊下が対面所でお目通り下さる」とのことであった。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第十章より
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