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細井管長の変節
この会談二日後の四月十六日、細井管長は東京・常泉寺に下向され、私を呼び出した。「浅井の件、どうか、しつかりたのみます」(阿部メモ)がさっそく実行に移されたのだ。
一室に待っておられた細井管長の手には、共産党の「質問主意書」がしっかりと握られていた。それを見せながら差し迫ったようすで、いきなり云われた。 「浅井さん、国立戒壇を捨てて下さい。国立戒壇をいうと、日蓮正宗は潰されるんです」
つい十三日前には本心を吐露して「広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられる」と明言されたのに、なんという変節か。
私は申し上げた。 「どうして国立戒壇をいうと宗門がつぶされるのですか。信教の自由は、現憲法こそ保証するところではございませんか」
「共産党の動きがこわいのです」 それから細井管長は共産党の恐るべきことを縷々(るる)と述べた上で、「国立戒壇を捨てよ」と一方的に強要された。
私は申し上げた。「学会は自ら犯した数々の社会的不正を暴かれるから共産党を恐れております。しかし、宗門が日蓮大聖人の御遺命を叫ぶのに、どうして共産党ごときを恐れる必要がありましょうか」
さらに申し上げた。「国立戒壇の否定と正本堂の誑惑は表裏一体です。学会は内外に正本堂を御遺命の事の戒壇と大宣伝しております。この時、もし国立戒壇を云わなくなつたら、正本堂の誑惑がそのまま内外にまかり通ってしまうではございませんか」
細井管長は気色ばんだ。「正本堂を事の戒壇とはいえますよ。このあいだ本山であなたに見せたでしょう。あの本に『此の所は即ち是れ本門事の戒壇』とあったじゃないですか。あの本は寛尊よりも、もっと古いものです」
四月三日には「日応上人の原本」といい、ここでは「寛尊よりも古い」といわれる。たばかりのゆえに自語相違する。
私は申し上げた。「猊下の仰せられる『事の戒壇』の意味は、宗門古来の定義とは異なるように思われますが……」
「法主」の権威に平伏せぬを小癪に思われたか、猊下は顔を真っ赤にして語気を荒げた。 「正本堂を事の戒壇といって何が悪い。あの本にあるように、戒壇の御本尊ましますところは、いつでも、どこでも、事の戒壇といえるんです」
なんとしてもねじ伏せようとする強引さである。私はあえて面を犯し強く申し上げた。「では、猊下の仰せられる『事の戒壇』とは、広宣流布の時の『事の戒壇』と同じなのですか」
猊下はいかにも苦しげに、言葉を濁らせ「いや、それは違う」
重ねて申し上げた。「もし『戒壇の大御本尊まします所はいつでも事の戒壇』と仰せになるのなら、三大秘法抄に御遺命された戒壇は建立しなくていいのでしょうか」
「 ・・・・・、もちろん、広宣流布の時は建てなければいけない」
「学会は、宗門古来の定義のままに 『三大秘法抄に御遺命の戒壇を事の戒壇』とし、それが正本堂であると欺瞞しております。ゆえに妙信講は『正本堂は事の戒壇にあらず』と学会を責めているのです。
しかるに猊下がいま事の戒壇の定義を変更され、別の意味で『正本堂も事の戒壇といえる』と仰せられれば、学会の誑惑を助けることになるではありませんか」
「いや、私のいう『事の戒壇』は、何も最終の戒壇の意味じゃないんだから ・・・・・」
「しかしそれでは法義が混乱します。御遺命の戒壇が曖昧(あいまい)になり、匿(かく)れてしまいます」
猊下はいいわけのごとく「学会だって『正本堂が三大秘法抄の戒壇だ』と、そんなにはっきり云ってるわけではないでしょう」
そこで私は学会発行の文書のいくつかを、高声に読み上げた。「正本堂建立により、日蓮大聖人が三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられる。これこそ化儀の広宣流布実現である」(仏教哲学大辞典)等々。
細井管長は次第に沈痛な表情になり、うつむきながら言われた。「学会がそこまで云っているとは知らなかった。これから五月三日(学会本部総会)の打ち合わせで池田会長に会うことになっているので、訂正するよう、よく云っておきましょう」
知らぬはずのあるわけがない。それはともかく、かくて妙信講に国立戒壇を捨てさせる目的で面談された細井管長は、またも“学会に誑惑を改めさせる”と約束されたのであった。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第十章より
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