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対面所で学会代表と論判
この学会総会を見て、私は総会を開き「大聖人の御遺命を曲げては宗門も国家も危うくなる。妙信講は講中の命運を賭しても、誑惑の訂正を迫る決意である。もし妙信講が憎いとならば、潰(つぶ)したらよい。しかし正義だけは取り入れて頂きたい。さもなければ国が持たない」と御遺命守護の堅き決意を述べた。
学会の反応は素早かった。翌日、宗務院の早瀬総監から「ぜひ会いたい」といってきた。 五月二十六日、法道院に出向くと、総監と阿部教学部長が待っていた。二人は学会の意を受けているごとくで、私の心を量(はか)ろうとしていた。
私は、正本堂の誑惑を訂正させるに不退の決意であることを強く述べた。早瀬総監は大いに驚き「ことは重大で、私達ではどうにもならない。この上は、猊下と池田会長と浅井さんの三人が、膝づめで話しあって頂くほかはない。さっそくこの旨を猊下と会長に伝える」といった。
池田会長と会えれば、ことは一気に決着する
---。私は心に期するものがあった。かくて昭和四十五年五月二十九日、総本山の対面所で、この会談が実現することになつた。
ところが、池田会長はついに姿を現わさなかった。替わって出て来たのは秋谷栄之助副会長(現・会長)、森田一哉副会長(現・理事長)、和泉覚理事長(現・指導会議々長)の三人だった。
細井管長の面前で、私は三人に対し、池田会長が学会総会で「今日はすでに広宣流布である」 「正本堂は宗門七百年宿願の事の戒壇である」等と公言したことを難詰した。三人は交々(こもごも)反論したが、追い詰められると「学会はこれまで、すべて猊下の御指南を頂いた上で発言している。どうして学会だけが責められなければならないのか」と猊下の責任を持ち出した。
私は「猊下の御本意はこうだ」と猊下を守りつつ、学会の誑惑だけを責めた。勝敗すでに明白になつたとき、細い管長が初めて口を開いた。
「正本堂は三大秘法抄・一期弘法付嘱書に御遺命された戒壇ではありません。まだ広宣流布は達成されておりません。どうか学会は訂正して下さい」と頼みこむよう云われた。
これを開いた秋谷は、血相を変えた。「これほど重大なこと、自分たちの一存では決められない。後日改めてご返事申し上げる」こう言うなり、憤然として席を立った。彼等にしてみれば「猊下はまたも裏切った」という思いだったに違いない。
数日後、早瀬総監から「学会が御返事を申し上げるというので、六月十一日、本山に来てほしい」との連絡があった。
対面所における彼等の態度は、先日とは打って変わって恭順そのものであった。森田が三人を代表して細井管長に言上した。
「先日の猊下の仰せを守り、今後学会は絶対に『正本堂は御遺命の戒壇』『広布はすでに達成』とは言いません。あらゆる出版物からこの意の文言を削除し、今後の聖教新聞の記事においては必ず私たちがチェックします」
細井管長はこれですべて解決したかのごとく、満足げにうなずき「浅井さん、これでいいでしょう。とにかく宗門でいちばん大きいのと、いちばん強いのがケンカしたのでは、私が困ってしまう。これからは仲よくやって下さい」と上機嫌だった。
私は、大いに不安であった。学会はいまは恭順を装っている。しかしいつ豹変して猊下に圧力を加えるかわからない。それを防ぐには、何としても学会と妙信講の間で、正本堂が御題命の戒壇ではない旨を確認する文書を取り交す以外にはない
--- 私は心に決していた。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第十章より
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