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誑惑訂正の確認書
御前を退出したのち控室で、私は学会の三人に、確認書を作ることを求めた。
とたんに三人の顔色が変った。戦時中の軍部のごとく驕(おご)っていた当時の学会にとって、正本堂の誑惑訂正を口頭で誓ったことすら堪えがたい屈辱であったに違いない。その上さらに確認書を求められたのだから、激昂(げきこう)するのも当然だった。
彼等は断固として拒絶した。私は執拗(しつよう)に求めた。ことは御本仏の御遺命に関わること、宗門の一大事である。ゆえに私は執拗に求め続けた。学会は頑強に拒否し続けた。
見かねた早瀬総監が私を隣室に招いて小声で言った。「あそこまで学会が猊下に誓っているのだから信じてほしい。これからは我々宗務院も責任を持って監督するから、どうかこれで納めて下さい」
宗務院に任せて済むのなら、初めからこのような事は起きてない。私はお断わりした。
この確認書の作製をめぐり、私の求めにより、その後三回、早瀬総監・阿部数学部長の立ち会いで両者の会談が持たれた。そのたびに秋谷と森田はさまぎまな理屈を交互に展開した。私はそれを論破し詰めては確認書を追った。
彼等は「すでに猊下にお誓いした以上、学会は二度と歪曲はしない。それが信じられない関係なら、確認書を交換しても無意味である。まず信頼関係を築くことこそ先決だ」などと屁理屈をこねた。
ところが八月四日の聖教新聞に、またも正本堂を御遣命の戒壇とする記事が発見された。
私は直ちに「この不誠実は何事か、いったい猊下に何を誓ったのか。だからこそ確認書が必要なのである。もし拒否するならば、全宗門の見守る中で是非を決する以外にはない。八月十九日までに返答をせよ」との手紙を送った。
八月十九日、総本山大講堂会議室で会談が持たれた。追いつめられた三人は牙をむき出した。火の出るような激論のすえ、ついに彼等は不承不承、確認書を作ることを認めた。
しかし最後に秋谷は「もし確認書を渡せば、妙信講はこれを利用して外部に見せるのではないか」
私はいった。「御遺命を二度と曲げさせないための確認書である。そんなに心配ならば、両者署名捺印の文書を一通とし、それを猊下のもとにお収めしよう」
かくて昭和四十五年九月十一日、池袋の法道院において、早瀬総監・阿部教学部長・藤本庶務部長の宗務三役憎が立ち会い、学会代表の和泉覚理事長・森田一哉・秋谷栄之助両副会長と、妙信講代表の父と私が署名して、「御報告」と称する確認書が作られた。
その内容は「一、正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時において断定しない。ここに猊下の御宸襟を悩まし奉ったことを深くお詫び申し上げると共に
今後異体同心にして広宣流布達成をめざして邁進することをお誓い申し上げます」というものであった。
昭和四十年以来、正本堂を「御遺命の戒壇」と断定し続けてきた学会が、ここに「断定しない」といい、また「今日すでに広宣流布」と偽ってきた学会が、「今後 ・・・・・ 広宣流布達成をめざして」と訂正したのである。
秋谷が作ったこの文言には多少の曖昧さはある。しかし彼等はその意とするところを口頭で幾度も説明し、誠実さを示した。私はその誠意を信じてやりたかった。
この確認書こそ、誑惑の主犯たる学会と、これを糺した妙信講が署名し、さらに誑惑に与同した宗務当局が立ち会い、そして細井管長のもとへ収めたものであれば、誑惑訂正の全宗門的合意を意味していた。
まさに学会の圧力から“猊座”をお守りしたものであった。
昭和四十五年三月の諌暁書提出以来、ここまでたどり着くのに半年かかった。一日一日が思いを込めた必死の戦いであった。
この確認書により、宗門に薄日がさすように、しばし御遺命の正義が蘇った。
学会は誓約したとおり、多数の書籍から誑惑の文言を自発的に削除した。また宗門機関誌からも御遺命違背の言辞は全く影をひそめた。
このような空気の中で、阿部教学部長が昭和四十六年八月二十日、別件の宗務で拙宅を訪れた。このおり、同数学部長はわざと居住まいを正し顔色を革(あらため)め「妙信講のいうところ大聖人の御意に叶えばこそ、宗門の大勢も変った。宗門がここまで立ち直れたのも、妙信講のおかげである」と神妙に挨拶したものである。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第十章より
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