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池田の背信
確認書の決着により、宗務役僧たちも少しづつ正義を口にするようになつた。
一例を挙げる。当時、妙信講の諌暁に触発された一僧侶が“もし正本堂が事の戒壇ならば天生原に建つべき”との疑問を宗務当局にぶつけていた。
これに射し阿部教学部長は文書で、次のように答えている。「正本堂が三大秘法抄等に示し給う最極の戒壇でない以上、奉安殿に引き続いてより大なる、戒壇御本尊格護の殿堂として建設する場合、大石寺境内またはそれに隣接する地所を選ぶことが、諸般の実状と便宜上当然のことである」
正本堂を指して“三大秘法抄に御遺命の戒壇ではない” “奉安殿の延長の建物”と述べているではないか。
確認書以前には全く考えられないことだ。宗門の空気は、ここまで変わったのである。
あとは、池田大作が改悔の心を以て、適切なる方法で全会員に誑惑を訂正し御遺命の正義を伝えれば、ことは解決するはずであった。私はその誠実を期待していた。
しかし、池田に改悔はなかった。彼は私の眼を恐れて表面的には慎んでいるごとくであったが、裏では依然として誑惑を強調していた。
たとえば昭和四十六年七月の学会本部幹部会では「我々が力を合わせ、真心をこめて、大聖人様の御遺命である正本堂を建立したのであります」と放言し、また同年十月の「登山会」において配布されたパンフレットにはヌケヌケと「正本堂建立の意義は、あらためていうまでもなく、大聖人の御遺命の事の戒壇であり、仏法三千年、史上空前の偉業であります」 「大聖人の御遺命たる戒壇堂の建立は、今や正本堂として四十七年に完成を見ることになっており、その上棟式が今年十月十二日に行われるのです。思えば、仏法三千年の悲願が、池田会長の手によって完成されんとする現在……」とあった。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第十章より
)
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