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「正本堂訓諭」発布さる
かくて池田の「宗門対策」が功を奏して、正本堂の完成を半年後に控えた昭和四十七年四月二十八日、ついに、正本堂の意義を公式に決定する「訓諭」(くんゆ)が公布された。
訓諭とは、一宗を教導するために管長が公布する最高の“指南”とされている。先には 「国立戒壇永久放棄」が公式決定され、いまここに正本堂の意義が公式決定されたのである。
その訓諭に云く「日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明(せんめい)し、もって後代の誠証(じょうしょう)となす。正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と。
この訓諭の意味するところは“正本堂は一期弘法付嘱書・三大秘法抄に御遺命された戒壇を、前以て建てておいたものである。よって広宣流布の日が到来すれば、そのまま「本門寺の戒壇」となる建物である“というものだ。
広宣流布以前に御遺命の戒壇を建立しておくとは、いったい何事であろうか。三大秘法抄には、広宣流布の暁に「勅宣・御教書」すなわち国家意志の表明を手続として建立すべしと、厳格に定められているではないか。さもなければ仏国は実現しないのである。
まさにこの「訓諭」こそ、御本仏に対し奉る許されざる背反。また確認書まで作って“猊下”を学会の圧力から守らんとした妙信講に対する重大な背信であった。
池田はこの「訓諭」をもって、妙信講の口を封じようとしたのである。
この訓諭は、正本堂の完成時における「広布達成宣言」だけは妙信講の目を恐れて控えてあるものの、正本堂を、前もって建てた「本門寺の戒壇」としたことで、国立戒壇否定の目的は果している。
池田の胸中には、いずれ妙信講を抹殺したのち「広布達成を偽れば ・・・ 」との心算があったものと思われる。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第十章より
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