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細井管長 妙縁寺に下向
総監と教学部長が辞表を出したことで、宗務院は機能停止に陥った。細井管長は事態を収拾しようと、妙信講の指導教師に就任していた妙縁寺住職・松本日仁能化を本山に呼び、私に宛てた書面を託された。
同時に私も、本山に登らんとする松本住職に、存念をしたためた長文の書状を託した。
細井管長の書面には「貴殿の宗務院の通告に対する回答を拝見した。ここに至る経過をつぶさにかえりみるとき、誠に残念であり悲しみの念を禁じ得ない。・・・・・
訓諭は私の真意であり、法主としての私の信念から出たものである。妙信講の意見を含めて、いろいろな人の意見も充分考慮したが、これは私の本心である。この決定は日蓮大聖人の御遺命にいささかも違背するものではないと信ずる。私も不惜身命の決意で御遺命の実現に全力をあげている・・・・・」とあった。
学会弁護士・山崎正友の手に成る文と思われた。
直ちに返書を申し上げた。「謹上 七月一日、松本能師に付けて給わりたる御状謹んで拝見させて頂きました。私共の存念、すべては同日松本能師を経て奉りました書に尽きるものでございます。事、ここに至るの経過、宗務当局こそよくよく知悉なれば、御不審がございますれば尋ね聞こし召されますよう願い上げます。すでに過去三年、妙信講は学会・宗務当局に、申すべき道理は申し述べ、尽くすべき誠意は尽くし切りました。しかるに無懺(むざん)にも欺(あざむ)かれ、かえって逆賊の嘲(あざけ)りを蒙(こおむ)る。今はただ卞和(べんか)の啼泣(ていきゅう)・伍子胥(ごししょ)の悲傷(ひしょう)、これを深く身に味わうのみでございます。
ただし、御遺命守護の責務は重ければ、御本意を覆う暗雲を払う決意、いよいよ堅めざるを得ません。前言を翻(ひるが)えしてなお恬然(てんぜん)たる無懺の学会・宗務当局には、道理もすでに無意味となりました。
このうえは、大事出来(しゅったい)して一国の耳目驚動(じもくきょうどう)の時、公延において厳たる証拠と道理を示し、一国に正義を明かすのほかなく、その時、始めて彼等の誑計(おうけい)一時に破れ、御本仏大聖人の御遺命を侵すの大罪に身を震い、心から改悔(かいげ)もあるものかと存じます。
さればその時、小輩等、早く霊山(りょうぜん)に詣で、宗開両祖の御尊前にて、正本堂の誑惑さし切りて言上、さらに宗門の現状と猊下の御苦衷(くちゅう)、つぶさに申し上げる所存でございます。
猊下には永く御健勝にてわたらせまするよう、偏えにお祈り申し上げる次第でございます。 恐々」
このとき私は、池田がもし正本堂を御遺命の戒壇と偽ったまま「戒壇の大御本尊」の御遷座を強行するならば、自ら男子部を率いて本山に登り、身を挺してこれを阻止する決意であった。
事態を見守っていた池田大作は「この上は、日達上人に出て頂くほかはありません」と、妙信講の説得を細井管長に懇願した。臆病そして狡猾(こうかつ)な池田は、またも猊座を楯として我が身を守ろうとしたのである。
昭和四十七年七月六日、細井管長は東京吾妻橋の妙縁寺に下向され、私と対面された。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第十章より
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