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国立戒壇を放棄せよ
御遷座の翌年五月、妙信講は久々の御登山を総本山に願い出た。ところが宗務院の早瀬総監から伝えられた返事は、思いもよらぬものであった。
「登山をしたければ、国立戒壇を捨ててほしい。これは猊下の御意向である」と。
何ということか。国立戒壇の放棄と正本堂の誑惑とは表裏一体ではないか。国立戒壇の御遺命を守るために正本堂の誑惑を訂正せしめた妙信講に、「国立戒壇を捨てよ」とは何ごとであろうか。
登山の願い出からこの返事まで一年もかかっていた。この間、宗門と学会は鳩首協議を続けたに違いない。
池田が恐れていたことは、妙信講が国立成壇を主張することによって、学会が四年前政府に提出した回答書の欺瞞を、共産党から追及されることであった。
また細井管長も対外的に「国立戒壇の永久放棄」をすでに宣言している。
ここに無慚(むざん)の二人は、妙信講からの登山願い出を機に、登山と引き替えに「国立戒壇」を捨てさせようとしたのであった。
私は深く心に決した。直ちに総会(第十六回・昭和四十九年五月十九日を開き、全講員に決意を伝えた。
「国立戒壇を捨てて登山をして、果して大聖人様はお喜び下さるであろうか。御遺命守護の御奉公は未だ終っていない。徹底してその悪を断たねばならぬ。師子王の心を取り出して国立戒壇への怨嫉を打ち砕き、政府への欺瞞回答を訂正せしめる。妙信講の行動は仏法・世法ともに出処進退正々堂々であるが、もし国法の落し穴あらば、その責任の一切は私にある」と。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第十章より
)
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