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阿部管長の登座
予期せぬ細井日達管長の急死は、宗門全僧侶に衝撃を与えた。
その不安と混乱の中、阿部信雄総監(当時)が「実は昨年四月十五日、総本山大奥において、猊下と二人きりの場において、猊下より自分に対し、内々に御相承の儀に関するお言葉があり、これについて甚深の御法門の御指南を賜ったことを御披露する」と、曖昧(あいまい)きわまる言葉を申し立て、茫然(ぼうぜん)たる一山大衆を尻目に猊座に登ってしまった。一瞬の出来事だった。
しかしこの“自己申告”は偽りであった。
当時、細井管長と池田大作の仲は最高に険悪で、多数の反学会活動家僧侶が細井管長のもとに押しかけては「学会と手を切るべし」と、協議を繰り返している最中であった。
当然、学会と内通している阿部教学部長には、細井管長をはじめ反学会僧侶から厳しい目が注がれていた。阿部教学部長も細井管長から疎んじられていることを知っている。
ゆえに当時、親密の河辺慈篤に会って「G(猊下)は話にならない」 「今後の宗門の事ではGでは不可能だ」(河辺メモ)などの鬱憤(うっぷん)を洩らしていたのだ。これが「内々に御相承」があったとされる二ヶ月前の二月七日である。
また御相承があったとされる日の二ヶ月後の六月二十九日には、全国教師指導会が本山で開かれている。ところが阿部教学部長はその内容を即刻池田に密告している。
細井管長はこれを知り、大勢の前で怒りをぶちまけているではないか。このような相互不信の間柄で、どうして「内々に御相承」などがあり得よう。
また自己申告にある「昨年四月十五日」に、阿部教学部長が本山に登っていた形跡は全くなく、これを立証する何の証拠もない。ただ自己申告だけだ。
ゆえに「総本山大奥において二人きりの場で」という時刻の特定については、衆僧からの追及に対し、未だに発表できないままになっている。
まさに偽って猊座に登ったのであった。そしてこの詐称が、のちに正信会と、さらに学会との抗争において「詐称法主」「ニセ法主」等といわれ、阿部管長を深刻に苦悩させることになる。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第十章より
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