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「本門寺改称」の陰謀
「本門寺改称」とは、大石寺の名称を本門寺と改めようというものである。
本来「本門寺」とは、広布の暁の国立戒壇を指すこと一期弘法付嘱書に明らかである。ところが池田は、偽りの広布達成を宣言した上で大石寺を「本門寺」と改称しようとしたのである。
もしこの改称が実現すれば、大石寺の正本堂はそのまま本門寺の本堂ということになる。すなわち百六箇抄の「富士山本門寺本堂」、一期弘法付嘱書の「本門寺の戒壇」のごとくに欺(あざむ)ける。
このとき正本堂の誑惑は完結する --- これが池田の執念、最後の陰謀であつた。
実は正本堂落成直前の訓諭に「正本堂は広宣流布の暁には本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」とあったのは、この伏線であった。
ゆえに池田は、顕正会を解散処分にした三月後、もう邪魔者はいないとばかり、この「本門寺改称」の企(くわだ)てを創価学会の総会(昭和四十九年十一月十七日)において、細井管長に発表させている。
このとき細井管長は「本門事の戒壇・正本堂の建立されたことは、ひとえに池田先生の庇護によるものと深く感謝する」と謝意を表した上で「日本国の広宣流布はいつかといえば、日本国の三分の一が入信したときこそ広宣流布したといえる。その時には、我が大石寺を、大聖人御遺命の富士山本門寺と改称することもあり得ると信ずる」(取意、大日蓮・昭和五十年一月号)と述べた。
池田の指示のままに「三分の一の入信で広宣流布」とたばかり、「本門寺改称」を始めて口にしたのであった。
この説法を承けて、阿部信雄教学部長(当時)はこう云った。「御法主上人猊下には、日本全民衆の三分の一が入信した時は広宣流布であり、その時、本門寺と称することもありうるという、広宣流布の御指針を御指南あそばされました。・・・・・
吾々は、法主上人の鳳詔(ほうしょう)を更に深く心に体し、本門寺実現の大目標をめざし、邁進(まいしん)致そうではありませんか」(大日蓮・昭和五十年一月号)と。
「本門寺改称」の企ては、このとき宗門の「大目標」となつたのである。しかしその後宗門・学会の抗争が起きて一時中断、そして阿部管長の登座により、この陰謀が再び動き出したのである。
池田にとって“日本国三分の一の入信”などは、何時でもできる宣言である。彼はこの偽りの宣言を、大石寺開創七百年に当る「昭和六十五年」(平成二年)と定め、この年の御大会式に本門寺改称を実現しようと企んでいた。
もしこの陰謀が強行されれば、御本仏の御遺命は完全に破壊される。よって昭和六十三年八月の総幹部会において、私は始めてこの陰謀を全顕正会員に知らしめた。
「顕正会が日蓮正宗にある限り、このような“誑惑の完結”は断じて許さない。いや、大聖人様がお許しにならない。・・・・・
不思議にも顕正会の二十万法城は、池田が狙いをつけている昭和六十五年の前半に成しとげられる。これこそ、大聖人様が顕正会をして戦わしむる御仏意である」と。
翌六十四年は改元されて平成元年となる。池田は大石寺の大客殿前に大広場を造成して、一年後に迫る「本門寺改称」の式典に備えた。
この大広場造成のため、広布の暁に勅使が通る門として七百年来大客殿の正面前に在った「不開門」が取り払われる。また日興上人お手植の老杉も切り倒された。かくて中国の天安門広場とも見まごうばかりの大広場が完成した。
池田はこの大広場で、外国の元首等を「梵天・帝釈」に見立てて多数招待し、正本堂の落慶式にも勝る大規模な儀式を予定していた。
まず平成二年九月に「大石寺開創七百年記念文化祭」を開催して広布達成を宣言し、ついで十月の慶祝法要で「本門寺」の寺号公称を阿部管長に発表せしめるという魂胆だった。
この式典こそ、池田大作の一世一代そして最後の大芝居であった。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第十章より
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