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 --- 正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む ---

  第三章 正本堂の誑惑を破す

 五 その他の国立戒壇否定の僻論

   「大聖人の仏法の救済対象は国家ではない

 阿部教学部長はまた次のようにいう。

 「
大聖人の仏法における救済の対象とその方法について一考したい  ---
 大聖人の仏法にあっては、永遠にわたって一人一人の人間の苦を解決し、生命の尊厳とその真義に眼ざめさせるものであり、特殊な権力または権力者のみを対象とするのでなく、すべての人を救済する目的を持たれている --- 故にこの人間、或いは人格とは別に、国家意思とか、国家そのものを弘教に利用する目的などは、本来大聖人の仏法には存在しないのである。
 国家或いは政治そのものと仏法とは次元が違うのであり、同一の立場では論ずべきものではない。故に大聖人の仏法の諌暁はあくまで一箇の人間としての為政者、天皇、国主、権力者ないし一般国民にたいする一人一人の正法への開眼を目標とされているのである。大聖人が立正安国論を鎌倉幕府に提出し諌言あそばされたことは、すなわち国主と雖も仏弟子としての自覚を喚起せしめ、その成仏を図る必要があり --- いわゆる国家意志そのものを目標として権力者へ諌訴せられたのではない
」(悪書U)と。

 大聖人が身命を賭して国主を諌暁あそばしたことも、阿部教学部長のえい眼にはこのように映るらしい。教学部長には、個人と国家、国家と仏法の関係が全くわかっていない。いや、わかりたくないようだ。
 大聖人が国家を諌暁あそばされたのは、“
国家を弘教に利用する目的ではない”などとは云うも愚か、その御心は実に、三大秘法を以て国家を安泰ならしめ、以て一切衆生を救済するにあらせられる。
 ゆえに立正安国論御勘由来には「
但だ偏に国の為、法の為、人の為にして、身の為に之を申さず」と仰せ給うのである。

 では一切衆生を救うために何ゆえ国家を諌暁あそばされたかといえば、ここに個人と国家、国家と仏法の関係を凝視する必要がある。
 およそ人間は、国家を離れては生存し得ないのである。そのゆえは、人間の生存には集団生活・共同生活が不可欠であり、集団生活がある限り、統制秩序の機能を果す国家がまた不可欠となるからである。すなわち国家は、人間の共同生活の最高一般的な統制組織体として、欠くことのできない存在なのである。

 この国家と、他の団体・結社との本質的相違はどこにあるかといえば、他の団体は加入・脱退が自由であるが、国家は、人間が生まれながらにしてこれに属し、かつ一方的に離脱することができない。また他の団体は法律・権力による強制をなし得ないが、国家は必要とあらば、物理的強制力を以てしても、個人および団体を服従せしめることができるのである。
 このような国家は何のために存在するかといえば、国家機能の第一は、内外からの危険から国民を守るところにある。内からの危険とは、秩序が崩壊して内乱に至ること、これを仏法では「
自界叛逆」という。また外からの危険とは、外敵の侵略、すなわち「他国侵逼」である。

 そして、もし国家が悪法を用い正法に背くならば、自界叛逆・他国侵逼を必ず招来するというのが、大聖人の強き御指南であられる。
 ゆえに立正安国論に「
若し残る所の難、悪法の科に依って並び起り競い来たらば、其の時何んが為んや。帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来りて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の他を椋領せば、あに驚かざらんや、あに騒がざらんや、国を失い家を減せば、何れの所にかせを遁れん」と仰せられている。

 まさに知るべし。国家の安危は全国民の幸・不幸をその中に包含しているのである。もし国家に二難が起これば、国民は塗炭の苦を受ける。ここを以て大聖人は「
一切の大事の中に、国の亡びるが第一の大事にて侯なり」(蒙古使御書)とは仰せられる。
 「国家主義」などのゆえではない、一切衆生を救うために「
国の亡びるが第一の大事」と仰せられたのである。

 すなわち、万民を救うためには国家が安奉でなければならない、国家を安泰たらしめるには国家が正法を立てなければならない。ゆえに大聖人は国主を諌暁あそばされたのである。
 この道理がわかれば、“
大聖人の仏法の救済対象は個人であって国家ではない”などの痴論は、たちまち雲散霧消しよう。

 阿部教学部長は云う 「
国家あるいは政治そのものと、仏法とは次元が違う」と。いみじくもここに云う 「国家あるいは政治」こそ、王法そのものである。そして、この王法が仏法に冥ずべしと御教示されたのが、安国論・三秘抄の御趣旨であられる。

 また “
大聖人の国家諌暁は国家への働きかけや国家意志を目標としていない。一箇の人間としての国主を、正法に開眼きせるため”などとも教学部長は云う。
 しかし、国主が私人として仏法を信じても、国家の安泰にはつながらない。国主が、国家を代表して国家意志を表明すればこそ、始めて国は助かるのである。
 ゆえに下山抄に「
国王の用い給はざらんに、其れ以下に法門申して何かせん。申したりとも国もたすかるまじ、人も又仏になるべしともおぼへず」とは仰せられるのである。
 もし大聖人が「
一人一人の正法への開眼を目標」とされ、その中の一人が国主なら、どうしてこの仰せがあろうか。教学部長の会通を聞きたいものである。



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