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日蓮正宗妙信講 第十四回総会
浅井本部長講演
“たとえ妙信講をつぶすとも
正義は取り入れて頂きたい”
( 時を待つベきのみ )
若し 「到達点の無い流れ自体」が広宣流布ならば、なんで大聖人様は事の戒壇建立を広宣流布の暁と一点に定め給い、「時を待つベきのみ」と重ね重ね御誡めになられたか。更に日興上人は「丑寅の勤行怠慢なく専ら広宣流布を待つべきものか」と仰せられたのか。
更に日興上人の門下に遺命せられたお言葉の「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すベき事」と云われた事はどうなるか。
広宣流布が「流れ自体」なら、「未だ広宣流布」などするもしないもないではないか。
更に歴代先師上人は一糸乱れず、どなたも異口同音に「事の広宣流布の時を待つ」と仰せられ、その時に事の戒壇が始めて立てられると仰せられている。若し広宣流布が単なる「流れ自体」であって到達点でないならば、その「時を待つ」という意味は全くなくなって了う。
さればここに憂えるのは広宣流布について、御在世の法体の広布と滅後の化儀の広布をごちゃまぜにしたり、「流れ自体」だとか「もうすでに広宣流布」だとか云えば、大聖人・究極の御本願であられる事の戒壇という一大事も、またぼけて了う。
これ正に宗門の重大事である。なぜいま大聖人の定め給う広宣流布の定義までかえ、無理にこれを達成した事にして、その上に昭和四十七年に立つ正本堂を指して宗門七百年の宿願、三大秘法の成就たる事の戒壇などと歪曲せねばならぬのか。私にはわからない。
仏法は大聖人の仰せの通り、日興上人の御遺命のままに、たとえ身命を失うとも教をかくしてはならないのであります。世の中にへつらい迎合して、身を惜しんではならない。若し、大聖人究極の御遺命を曲げたら仏法はどうなる。国家はどうなります。
日蓮正宗七百年の伝統は、化儀化法純然として大聖人仰せのまゝに実践して来た事にある。故に日興上人は、「富士の立義いささかも先師の御弘通に違せざる事」と宣言遊ばしたのです。仏法に己義を交えば、由々しきひが事であります。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加
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