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日蓮正宗妙信講 第十五回総会
本部長指導
日本の広布・国立戒壇こそ世界平和の鍵
国家諌暁なくして国家体験はおこらず
十万世帯 御入滅七百年までに達成せん
事の広布には国家体験が必要
さて、それでは「事の広宣流布」は どのような姿で来るのか、凡慮の及ぶところではありませんが、ここに大聖人様の
撰時抄における御指南を拝するのです。
ただ今みんなで 奉読した御文であります。確かに、凡夫の頭で平面的に考えれば、どれほど折伏しても何割かは「絶対に信じない」という者も残るように考えられる、一対一の折伏にも
限界かあるように思われます。
だが 撰時抄の御文のごとくんば、事の広布の時の一国一同が信ずる姿を 「或は国をおしみ、或は身をおしむゆえに」 「彼のにくみつる一の小僧を信じて」 「皆頭を地につけ掌を合わせて 一同に南無妙法蓮華経と唱うべし」と仰せであります。
これ 一国一同が仏法を境として 強烈なる国家体験をする時、いかほど強情我慢・謗法の悪心強き者も
強烈なる事実の前にひれ伏し、かくて日本一同に一時に大聖人の御法を信ずるようになる
との御指南であります。
この御金言を拝するに、一対一の折伏は 寸時も手をゆるめてはならない、だが一国一同が信ずるにはどうしても
必ず大きな国家的な体験を経ねばならぬのであります。
国全体が仏法の道理のまま、強烈なる罰と利益の体験を味う時、今まで仏法を軽んじ憎んでおった連中も
「仏法は空論ではない」 「日蓮正宗の叫び通りになって来た、日本の国は本当に危うくなって来た」と、かくて仏法の現証としての危機一国に逼り
身に危険が及ぶ時、始めて 「国を惜しみ、身を惜しむ」ゆえに、大法軽悔を心から懺悔して、頭を地につけ南無日蓮大聖人・南無妙法蓮華経と
一国一同に唱える時が来るのです。
これが 事の広宣流布の姿であります。凡夫の小さな理性で 納得などという甘い帰依ではない。強烈なる国家体験、厳たる事実の前にひれ伏して
頭を下げざるを得ないのです。およそ、善につけ悪につけ、国家自体が大きな体験をする時には、一国大衆は同じ心、同じ気特になる。
たとえばあの終戦の時、昭和二十年八月十五日、あの日、正午から天皇陛下の重大放送があると云われて
皆ラジオの前に集りました。そしてあの玉音放送を聞いた時、日本人として泣かぬ者はあったでしょうか。「ああ日本は敗けたのだ」と
皆手放しで泣いた。このように善につけ悪につけ、国家が大ききな体験をする時には
一国一同が同じ心のリズムとなる。
今ここに、大聖人の御法を境として 一国が強烈なる国家体験、罰と利益を味う時、始めて日本国一同の帰依が行われる。これ撰時抄の御指南であります。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加 )
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