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五老僧の異解に就いて
( 戒壇より御本尊を通じて法門を立つ )
而うして、ついに弘安二年に、其の御本懐をとげさせられた。
がしかし、未だ本門戒壇の建立にまで到らなかつたが為に、御本尊を興尊に御授けになり、戒壇堂建立の為に努力する様・御遺付になつたのである。
興尊は常随給仕の任にあらせられて、常に教授を受けられ、しかも戒檀建立の大願と本尊と題目の三大秘法 --- 聖意の三眼目 ---
を受けさせられたが為に、御滅後に於ける法門決定の上に毫も曲ぐるところなく、幾多の法門を整理することができたのである。
即ち此れ、興尊が戒壇より御本尊を通じて法門を立てられたが為に、一路整然たるを得たのである。
例へば本尊についても、御所持の一体像は月を待つ間の螢火で、已に何んの功益もなしと論断され、四脇士造副の本尊は仏意の機情に趣いての巧用にして、聖祖御入滅後は凡師の用ゆべきところに非らずとなし、ご自身御本尊を書写あつて其々信徒に授与せられたのである。
ところが五師は此の大綱を会得しなかつたが為に、僅かに見聞せしところに従つて、或は一体像・或は四菩薩造像、或は一分曼茶羅等を持つて、何等定まるところなく右顧左眄してをつたのである。
此の一切衆生総与の本尊を通してこそ、聖祖御立の法門の甚深の御意が会得せらるるのである。観心本尊抄の「彼は脱此れは種なり、彼は一品二半、此れは唯題目の五字なり」との御意も、瞭々然たることができる。
五師が此の肝心の一点を会得しなかつたが為に、本迹−致などの説に落ち入つたので、聖祖の御本意からは二段も三段も手前にをつて云云してゐたのである。
此れ唯仏与仏の境界に非らざれば能はざるところ、その器にあらざれば百千万年教を受くるも、ついに会得することはできないであらう。法水の流るるところ常に器と不器とあり、不器は其れ自ら不器なることを知らねばならぬ。
(略)
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
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