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異体同心
「異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶ふことなし、乃至日蓮が一類は異体同心なれば人々すくなく候へども、大事を成じて一定・法華経ひろまりなんと覚へ侯」とは、日蓮大聖人が大田金吾殿へ御諭しの言葉であるが、この御聖訓こそ過去六百五十余年・門下の間に奉戴せられ来りし鉄則である。
歴史を繙けば、日本各宗教中・終始権門に媚びず、時流に阿附せず、毫末も策略を弄する事なく、毅然として宗祖の遺風を追ふて教田を開拓せしものは、独り日蓮大聖人の宗旨あるのみである。(略)
此れ日蓮教徒の意気であつて、唯一の教化手段であつた。(略)
異体同心、此の聖訓・言ひ易くして行ひ難い。凡夫はその面貌の異る如く・心を異にするが故に、しかも尚、已心をもつて無上となし、此れを中心として他を律し一切を商量するが故に、同心することは困難である。
唯・此れを行ふの道は、私心を放擲して仏心を已が心となすにある。仏心・曇りなければ、期せずして異体同心ならざるを得ない。
今や法戦漸く衰へ、聖祖の遺風そのあとを断たんとし、教徒は皆・異体異心ならんとする。若し此のままに推移せんか、精神の弛緩はやがて教田を荒廃せしむるは、火を見るより明かである。
(略)
昭和六年八月
(大日蓮)
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
この淳師の言葉、現今の富士門下の「教徒は皆・異体異心」の在りようを、まさしく言い当てる未来記のごとくでありました。
池田会長による「此れを中心として他を律する」の私利・私欲を発端として、そを制止すべき貫首による二代に渡っての、興尊に御遺命ありし「事の戒壇」に対する誑惑への与同と阿諛。
これによって、「大事を成じて一定・法華経ひろまりなん」を期すべく富士の門下にあって、顕正会・正信会・創価学会が、解散・擯出・破門等の事態。まことに「聖祖の遺風そのあとを断たんとし、教徒は皆・異体異心」となりはて、「精神の弛緩はやがて教田を荒廃せしむるは、火を見るより明か」の呈を示すことでした。
門下諸氏にあって「私心を放擲して仏心を已が心」となし、「仏心・曇りなければ、期せずして異体同心」ならんことを。
しかして「凡夫はその面貌の異る如く・心を異に」し、しかも已心・我見による仏心の了解をもつて無上となすことであれば、顕正会を除いてもはや聖祖の御願行・御本願たる国立戒壇を述ぶる者なし。「此の聖訓・言ひ易くして行ひ難」しでありました。
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