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御法主上人猊下御指南
創価学会秋谷会長外十二名の連名による質問に対する回答・教示
( 正本堂問題は、池田氏の御遺命の戒壇
への執着による )
しかして、そのような意識の中から、池田名誉会長の慢心が強まり、それが正本堂問題、昭和52年路線の逸脱、そして今回の問題を生んだ根源となっていると思います。それはつぎに挙げるような事柄からも明らかであります。
まず昭和39年6月30日、東京台東体育館における学生部第7回総会の講演で、池田会長は、「戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民策が全大衆がしあわせになることであります。その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の徒の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます」と述べられています。
いやしくも正宗信徒の身として、もっとも大事大切な御遺命である戒壇のことをこのように下すことは、まさに大聖人軽視、三大秘法軽視の最たるものです。この発言は、まさに大聖人一期の御化導の究極たる『三期弘法抄』『一期弘法抄』の戒壇の御文に対する冒涜であり、三大秘法破壊につながる重大なる教義逸脱というべきです。
このような慢心が、つぎの正本堂の事柄に影響を及ほしたと思います。そして、昭和43年の着工大法要の時の挨拶として、池田氏は、「日蓮大聖人の三大秘法抄のご遺命にいわく「霊山浄土に以たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり」云々。この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要・・」と述べ、まことにはっきりと『三大秘法抄』の戒壇そのものが、ただちに正本堂であることを宣言されました。
この表明は、前掲の日達上人が大聖人の御遺命に関する意義を述べたと拝される御指南の三文より、その表明相において一段と明確になっております。
そして日達上人は前三文に関しても、昭和47年4月28日の訓諭において、明らかに正本堂がただちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ではなく、その意義を含むのであることを示されました。すなわち、前のお言葉を改訂あそばされたのです。
これを基準とするとき、最初の発言が誰方であるかということとは関係なく、着工大法要の際の池田氏の言葉は誤りですから、正本堂建立発願者という責任ある立場からも、その後において自ら進ん大聖人様に対し奉り、誤りの言そのものをただちにお詫び申し上げ、それを宗内一般に公表すべきだと思います。これこそ大聖人の御遺命の重大さを正しく拝する信仰ある者の行為と信じます。
もっとも先に挙げた戒壇に対する、池田氏の東京体育館におけるあの軽侮に満ちた発言より推測すれば、そんなことはどうでよいと考えているのかも知れませんが、厳正な大聖人の仏法よりすれば、そのような無慚な考え並びに訂正されないこと自体、正直捨方便の姿ではないのです。故に、私は教師指導会においてそれ指摘したのです。
もちろん私はそれが道理と思いますので、当然のこととして何ら池田氏に陳謝する必要は認めません。
それのみならず、池田氏が、その期に及んでもと思われるようなときに、まだ正本堂が御遺命の戒壇であると執われ、大聖人の御本意に背く意識をお持ちであったことを証する事例があります。
昭和47年の4月、既に日達上人の訓諭よる正本堂の定義が決定したあとの、同年10月の落慶法要の時、池田氏は法要が終って下山する信徒に、幹部を通じて、七百年前の大聖人の御遺命が、ここに達成された旨の言葉を伝えさせたのです。このように、池田氏は日達上人の御指南に、あえて背くことを物ともせず、正本堂は御遺命の戒壇という意識に捕らわれ、その落慶が御遺命の達成であると深く執着していたと思われます。
(上記科段は、便の為当サイトで添加 )
顕正会の「御遺命守護」に関わる部分のみ、御遺命守護資料館の貴重な資料として抜粋して紹介しました。著作権者からの指摘・要請があれば、相応の対応を検討します。
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