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御法主上人猊下御指南
創価学会秋谷会長外十二名の連名による質問に対する回答・教示
( 自語相違及び矛盾との非難への論駁 )
つぎに、「(2)従前の御発言との矛盾、自語相違 及び、(3)日達上人の御指南との矛盾 」という題、及び論旨に対し、申し述べます。
右の中で、まず私が教学部長の時、昭和47年3月26日の総本山における指導会で、訓諭の基となる宗門公式見解を発表した内容を挙げて、それを今回の発言と比べて矛盾するものであり、自語相違と述べられております。
私としては、そのことは全て承知の上で教師指導会における発言をしたのです。なぜならば、宗祖大聖人の御遺命の戒壇の重要性を考えるとき、本当の戒壇の正義に立ち還ることが、仏子としてもっとも大切であると思うからです。
顧みれば、その当時、正本堂を何とか御遺命の戒壇として意義づけようとする池田会長と学会大幹部の強力な働きかけや、妙信講の捨て身の抗議があり、その間にあって宗門においても、正本堂の意義がいろいろ考えられました。
そうした中で、3月26日の宗門公式見解を教学部長より発表する仕儀となりました。教学部長としての私は、その時その時を忠実にと思い、御奉公をしたつもりでありました。 しかし、今顧みれば、あの時の「正本堂は広宣流布の時に『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇となる」という趣旨の教学部見解は、宗祖大聖人の御遺命たる本門戒壇の正義よりみれば、適当でなかったと思います。
それが、日達上人の、「昭和40年2月16日の私が申しました言葉の意味とピタリと合っておるわけで、それを判り易く要約すれは、こうなるのでございます」という御指南と一体のものとはいえ、その背景には、正本堂建立発願主を含む創価学会の強力な意義づけに関する主張があったことを、今にして思うものです。
したがって、私は、日達上人の御本意は、むしろそこにあらせられず、異なった趣意があることを、昭和四45年時の御説法に拝するものです。
すなわち、「有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並に御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから私は未来の大理想として信じ奉るのであります」(昭和45年4月6日・御霊宝虫払会御書講)
「いつ本門寺という名前に変えるのが至当か、広宣流布の時即ち三大秘法抄に依る戒壇建立した暁に変るべきと解釈していいか、と云う、こういう御質問でございます。誠にその通りと返事する他はありません。(乃至)理想としての三大秘法が完成して戒壇が出来た時に本門寺と名前を変える。最もそれで宜しいと私は思います」(昭和45年5月30日・寺族同心会質問会の砌)
「戒壇の御本尊在ます所は、即ち事の戒壇である。究極を言えば三大秘法抄或は一期弘法抄の戒壇で勿論事の戒壇であるけれども、そこにまつる処の御本尊在す所が今此処にある此の御本尊様は戒壇の御本尊である。故に此の御本尊在ます所がこれ事の戒壇である。それが御宝蔵であっても、奉安殿であっても、或はもっと立派なものが出来るかも知れない。出来たとしても、此の御本尊まします所は事の戒壇である」(同前)
「三大秘法抄並びに一期弘法抄に申される処の戒壇の御本尊は未来のことである。現在我々はそれは大理想として置いて、現実に於いて我々の今戒壇の大御本尊在ます処が事の戒壇である。(乃至)天母ヶ原に建とうがどこに建とうが、その時に天皇陛下が建てるかどうか知らないけども、広宣流布が完結した時建つと云う事は大理想として留め、現実の戒壇の御本尊を御宝蔵からお出ましになって奉安殿がある。更にお出ましになって正本堂にあれば実に有難いのである。だから戒壇の御本尊在す処は真実にお題目を唱えて行かなければならないと云うことを申すのでございます」(同前)
(上記科段は、便の為当サイトで添加 )
顕正会の「御遺命守護」に関わる部分のみ、御遺命守護資料館の貴重な資料として抜粋して紹介しました。著作権者からの指摘・要請があれば、相応の対応を検討します。
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