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総本山客殿新築落慶大法要 御法主上人猊下御説法
( 本門戒壇の大御本尊御遷座と正本堂解体の事由 )
( 正本堂の御遺命に関する悪見解 )
思うに、先師日達上人は過去からの関係によって、池田らに対する深い慰撫薫陶の慈念により、教訓または誘引されて、その善導と育化を計られたのであります。蓋し、「三箇の秘法建立の勝地は富士本門寺の本堂なり」の御文より拝するに、正本堂という名称は、大聖人遺命の戒壇に相当する内意においてその意義を含めるお心をもって、当時の広布の進展状況を鑑み、一層、僧俗一致の純真な信心により、さらに真の広布へ向うべき勇猛精進と激励の意から、かく名づけられたものと拝します。
しかるに正本堂建設以後、池田大作や創価学会はその期待を無残にも裏切り、驕慢にも「創価学会に仏法の本体あり」との、本を忘れ根を切る大逆非道の執見と我意によって主張した『広布の達成』という虚言を直ちに容認されなかった怨念より、種々の邪義をもって宗門に違背するに至りました。
それらの誤りは、各方よりの僧俗の指摘により、狡猾な池田大作等の弥縫策をもって形式的な反省謝罪を行うことで、一時的に収まったのであります。それを御覧になった日達上人は、昭和五十四年五月三日の創価学会本部総会の席上、学会の誤りを許されて今後の正しい広布への尽瘁を要望され、間もなく、その年の七月二十二日、御遷化あそばされたのであります。
しかし、その後池田大作の我意・我見による広布への邪見や仏法の正義を軽視する邪想は、本質的に全く改まるところなく推移し、しばらくの間表面は後董・日顕ならびに宗門に対して、やや恭順の姿勢を取る形がありましたが、次第に自らの『広布第二章』なる邪念の思惑を中心として宗門の従属を強い、創価学会へ宗門を実質的に併呑し、支配せんとする野望より、長きにわたり衛星放送等の方法をもって、法主と宗門への批判的言辞を繰り返しつつ、会員の洗脳を計ったのであります。
蓋し、これらの元は、やはり彼等の本門戒壇の正義に関する曲解、したがって正本堂についての俗悪な思い込みにあったというべきであります。正本堂の御遺命に関する悪見解を、いかにかれこれ考えようとも、その後の経過よりの今日の彼等の現状はいかがでありましょう。宗門の血脈と信条化儀に大きく背反することによって、それらは全くの空文・空論と成り果てました。すなわち、自ら総本山へも正本堂へも参詣せず、またできない謗法信徒団体と成り果てているからであります。
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加 )
ここは一言、コメントしておきましょう。「正本堂という名称は、大聖人遺命の戒壇に相当する内意」とは、それこそがまさしく「御遺命に関する悪見解」であり、その悪見解をたすけて「いかにかれこれ考え」たのは、誰であっただろうか。
「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」なる二冊の”悪書”を著して、「御遺命に関する悪見解」を敷衍し、 「池田大作の我意・我見による広布への邪見」をたすけては「舎衛の三億」やら「広宣流布は終着点のない流れ自体」やら「因に約すれば広宣流布」と詭弁を構え、「勅宣並びに御教書を申し下し」の御文を「建築許可証」と誑惑し、「憲法は主・仏法は従」と主張し、「国立戒壇は田中智学が云い出した」等と「いかにかれこれ考え」たのは、他ならぬ阿部教学部長(当時)でありました。
( 平成十四年十一月十五日、櫻川
記 )
顕正会の「御遺命守護」に関わる部分のみ、御遺命守護資料館の貴重な資料として抜粋して紹介しました。著作権者からの指摘・要請があれば、相応の対応を検討します。
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