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広宣流布と文化活動(一)
広宣流布の二つの意義
広宣流布については、二つの意義がある。それは、化法の広宣流布と、化儀の広宣流布である。
化法の広宣流布は、在世においては霊鷲山の八年、末法においては目蓮大聖人の時である。
化儀の広宣流布は、理の一念三千の広宣流布は、中国では陳の天台大師の時、わが朝においては、桓武の伝教大師の時である。
末法事の一念三千の化儀の広宣流布は、七百年来、言い伝えられてはきたが、いまだ実現されてはおらない。
化儀の広宣流布とは、国立戒壇の建立である。この広宣流布について、大聖人のご予言及びその思想の根底となるべきものは、左の御書にうかがい知ることができる。
三大秘法稟承事にいわく、『戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つ可きのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり』
また、一期弘法御書にいわく、『日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年
壬午九月 日 日蓮 在御判 血脈の次第
日蓮日興』
以上二つの御書において、深く考えてみねばならぬ個所がある。すなわち、戒壇の建立の付嘱は、別しては日興上人にのみあり、総じては弟子壇郡一同に対してあったのである。
『日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す』の付嘱は、第二祖日興上人への別付嘱を意味し、『就中我が門弟等此の状を守るべきなり』とは、弟子壇那への総付嘱を意味する。
また、日興上人二十六箇条置文のなかには、『未だ広宣流布せざる間は、身命を捨て随力弘通を致す可き事』とのおおせがある。この御文は、日興上人が、重ねて滅後の弟子檀那へ、総付嘱をなされていることと拝すべきである。
かくして、付嘱を受けたる弟子檀那が、七百年近くの間、ただ夢のごとく、広宣流布、広宣流布と叫んできたのである。どうすれば広宣流布ができるのか。
広宣流布をしなければならぬということは、日蓮宗宗門徒は、頭のなかにクギを刺されたように、当然であると思いこんでいるだろう。もちろん、そうあるべきである。しかし、宗祖及び御開山いらい、広宣流布ということは当然ではあるが、どうしたらよいかということについては、時代時代の歴史について、振り返ってみよう。
第三祖、日目上人の、垂井の花と散られるまでの、数回の、京都における上奏文、第四世、第五世、日道、日行上人にいたる申状のなかに、はっきりと、国諌ということが、あらわれている。
これらは、皆帝王付嘱(守護付嘱)の意味においての活動が、徳川時代、及び明治の時代までに流れた思想であって、権力者によって、広宣流布しようとした考え方、及び二祖日興上人様の、『未だ広宣流布せざる間は、身命を捨て随力弘通を致すべき事』の思想のもとに、強信の者が、命を捨てて法難と戦ってきた歴史は、数多いのである。
しかしながら、いまだ広宣流布のきざしすらみえなかった。これ観心本尊抄において、大聖人が、天台の時をさして、『円機有って円時無き故なり』とのおおせに似たる方程式によるものか。
(大白蓮華
昭和三十一年三月一日)
この戸田会長の言、まことにもってさすがに「核心」を突いていることだ、とわたしに思われるのでした。
「七百年近くの間、ただ夢のごとく」に叫んできた「広宣流布」・「国立戒壇の建立」を、「どうすれば広宣流布ができるのか」と問い・実践したのは、ひとり戸田会長であったことでした。
「こうした同宗の戒壇論を、具体的なタイム・テーブルの上にのせたのは戸田であった」とは、西山 茂・東洋大学教授の指摘(教義解釈の変更をめぐる一仏教教団の葛藤過程)するところですが、たしかにその通りであることだ、とわたしも思います。
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