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広宣流布と文化活動(二)
やさしい仕事では断じてない
もったいなくも、大聖人が、三大秘法の南無妙法蓮華経を弘通せられた道程を拝するに、まず建長五年四月二十八日の、宗旨建立のとき、初めて題目を唱えられ、その後、幾多の苦難を経られつつ、題目の流布に当たられたのである。
その後、佐渡流罪のとき、ようやく御本尊をおあらわし遊ばし、その後は、御本専の流布に、お力をお注ぎ遊ばされたのである。
しかして、弘安二年十月十二日に、戒壇の御本尊を建立遊ばされた。この御本尊は、一閻浮提総与の御本尊であり、大聖人の極説中の極説であるゆえに、日寛上人の観心本尊抄文段の御本尊についていわく、『(御本尊においては)弘安元年已後は、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり』と。
これをもってみるに、本門の題目の建立は、建長五年四月二十八日、本門の本尊の建立は、弘安二年の十月十二日で、本門の戒壇の建立は、一期弘法書にみるがごとく、後世の弟子に残されたのである。
しかし、義分においては、本門の本尊のいますところ、これ戒壇の義であるがゆえに、三大秘法の義においては、判然と確立されていることは、いうまでもない。
しかして、在世のなかに、事の戒壇たる国立戒壇が、なぜできなかったということについては、われら凡夫においては、ご仏智は、計りがたいが、もし国立戒壇の建立あるときは、化儀化法の広宣流布が、一時に成り立って、むしろ民衆の信仰を永続させえないと、深くご思慮遊ばされたのではなかろうか。
翻って、大聖人滅後の広宣流布の様相をみるのに、題目は一日一日と全国にひろまり、現今は、日本国中、題目を知らぬ者がないまでになったのである。かくしてみれば、題目の広宣流布は、既になされえたと、一応は考えられるのである。
さて、本尊の広宣流布においては、どうなっているであろうか。各宗各派は、互いに勝手な本尊をつくりあげ、正邪混とんとして、いずれが邪か、いずれが正かは、一般民衆には判定のつかない状態である。すなわち、佐渡御書において『釈教の中に、小乗大乗権経実経・雑乱して明殊と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は、天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛に分別すべし』とあるごとく、大聖人のご真意の御本尊と、ご真意にあらざる本尊とを、しゅん別しなければならぬときがきている。
しかして、正しい御本尊をもって民衆に付与して、大聖人が観心本尊抄に、『一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し、五字の内に此の珠を表み、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う』とおおせられた、ご聖意を徹底すべきである。
これがためには、正しき御本尊を判定して、大聖人のおおせのごとく、身命を賭して、随力弘通をなさなければならない。さて、そのご聖意の御本尊は、いずれにあり、いかなる御本尊であろうか。 それは、先に述べたごとく、日寛上人のご断言のごとく、かつは確固たる証拠のある、弘安二年十月十二日の、一閻浮提総与の御本尊であることは、いうまでもない。
しかして、この御本尊は、日蓮正宗富士大石寺に、六百数十年来、厳然として守られている。されば日本国中、この御本尊に統一せらるべきは、いうまでもないことで、これにそむくやからは、仏敵と断じてさしつかえない。
ゆえに、国立戒壇建立のときは、この御本尊が、戒壇の御本尊なることは当然である。この国立戒壇は、当然日蓮門下において、遂行されなければならないが、これは重大なる仕事であって、一朝一夕になし得られるような、やさしい仕事では断じてない。
さればこそ、日蓮宗内に七百年近くの間、ただ夢のごとく言いならされてきて、大部分は単なる理想境とし、実現不可能事とせられているのである。
(大白蓮華 昭和三十一年四月一日)
「この国立戒壇は、当然日蓮門下において、遂行されなければならないが、これは重大なる仕事であって、一朝一夕になし得られるような、やさしい仕事では断じてない」とは、その通りでありましょう。
そしてそのあまりの困難さから、「日蓮宗内に七百年近くの間、ただ夢のごとく言いならされてきて、大部分は単なる理想境とし、実現不可能事とせられ」ていたこと、もまた事実でした。
しかしてここに、戸田会長は国立戒壇の建立を「創価学会の唯一の大目的」と全創価学会員に号令し、「具体的なタイム・テーブルの上にのせた」こと、でありました。
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