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人法論
前号に述べた通り、古今東西を通じて、宗教と国政とは、その民族の文化度に応じてマッチすべきものである。ただ、教えがその時代に適応するかいなかによって、国に栄えもありおとろ衰えもある。
しからば、いかなる宗教によらなければならないか。それは、宗教の五綱といって、教・機・時・国・教法流布の先後という宗教批判の原理の一つがある。これに照らして、現時代の仏法を判定しなくてはならぬ。
今時、末法の教えとは、釈迦仏法はすでにその効力を失ったがゆえに、ただ、法華文底深秘の大法、すなわち、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経の教えがあるのみである。これがゆえに、『三秘密の法を持ちて』とおおせられているのである。
次に、末法今時の機とは、われわれ民衆の生命の状態である。今日の一切の民衆をみるのに、法華経の予言にぴったりと合致している。
すなわち、三毒し盛といって、貪(むさぼり、よくのつよいこと)
瞋(いきどおり、争いごとを好む、すぐ腹をたてる)
癡(おろか、バカなことをよくやりだす)の三毒が非常に多い民衆である。そのほかに、疑い深く嫉妬深い、それでいて我慢が強く、自慢、高慢、処置のない民衆である。
これらの民衆の根性を、機根とも機ともいうのである。このような民衆に、ただ一通りの浅い仏法論や因果論や、または儒教、キリスト教等のような低級なる教訓では、どうしようもない。さればこそ、人の生命を根本からゆり動かして、清純にして、強き生命を建立する法華文底深秘の大法が必要なのである。
また時とは、五濁悪世の末法たる今現在を示すのである。世界各国は自国の利害にのみ没頭して、口に世界の平和を論じながら、その行動たるや弱肉強食の畜生道それ自体である。
また国内をみるのに、その民衆の生活は富と貧乏との争いである。またその思想は、資本主義と共産主義との闘争である。加うるに、原子爆弾の出現は、一層、人の心に焦焼を加えている。
このときに、どんな政策も、どんな思想も、世界を救うことはできない。ただ、日蓮大聖人の教えのままに、法華文底深秘の大法こそ、今の時を救うものである。
国とは、今時の世界情勢からすれば、全世界のことであるが、いまただちに、この一大秘法の大法を理解させることはできない。ゆえに、この深秘の一大秘法に縁があり、かつは、その理解がなされる民族の国、すなわち日本国を意味することになる。この日本国に、一大深秘の大法が発生して広宣流布し、しかるのちに、全世界が救わるべきものとなる。
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次に教法流布の先後とは、釈迦仏法の権実、本迹、種脱の仏法が、どう広まり、どう人を救ってきたかを、よくよく考えてみるに、究極のところ、法華文底深秘の大法が、当然広まらねばならない。
かく簡単に論じただけでも、一大深秘の大法、すなわち三秘密の法が、今日の仏法であることが断じられる。されば前項の『王法仏法に冥じ』の仏法は、三大秘法の南無妙法蓮華経でなければならぬ。
この仏法に冥ずべき王法は如何。ここに、はじめて政策が論じられて、その方法が樹立されなければならない。しかし、いかにりっぱな政策でも、いかにりっぱな国策でも、その人を得なければ、なんの役にもたたないことになる。ここにおいて、日蓮大聖人が『王臣一同に三秘密の法を持ち』とおおせのごとく、国政をつかさどるものも、その国政に順応する民衆も、ともに法華文底の三大秘法を信ずるようにならなければならない。
いってみれば簡単なようであるが、『王臣一同に……』という、すなわち、民衆全体がこのあり方を信ずるようになるということは、実に困難なる事実である。いまさらながら、法華経の『難解難入』『難信難解』のことばが、うなずかれるのである。
(大白蓮華 昭和三十一年九月一日)
「王法」とは政策・国策であり、人に約せば「王臣」とは国政をつかさどる政治家、「一同」とはその国政に順応する民衆であるのだと、戸田会長は語ります。
「仏法」とは本門の三秘密の法であること、また五鋼判に照らして論じています。
しかして「王臣一同に三秘密の法を持ち」とは、これまことに『難解難入』『難信難解』であり、実に困難なる事実であることでした。
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