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奉安殿建立の意義
( 御宝蔵の縁由 )
現在まで安置の御宝蔵は、間口四間、奥行八間、寛正元年第九世日有上人の時に小校倉に造られ、地上四尺の上に六尺の高さで土蔵造りでありました。
そして寛政三年、三十七世日ぽう上人が再建、文久二年、五十二世、日霑上人が大修理を加え今日にいたったものと聞いております。
折伏の大師匠・戸田会長先生の指導のもとに本尊流布に邁進する学会員の登山が、とみに増加、月二回の登山は月三回に四回にと、これまた一週を二回に分割登山する状態となり、一度の御開扉百八十人前後の状況が、奉安殿寄進の請願に進んだものであります。
請願書には『信行増進のため毎月数千の信徒が登山し、戒壇の大御本尊様に参詣し、懺悔滅罪と報恩謝徳をいたしております云云。さらに戒壇の大御本尊様をあらゆる外部の悪条件から完全に御守護申し上げることのできる鉄筋コンクリート製の近代的宝蔵で、しかも現在の一回の登山者の状況からみても、一千名以上、一度に参拝しうる外陣参拝式の建築物を御寄進申し上げ、信徒の誠を供養いたしたいと存じます』
かくのごとく、このたびの御奉公は、清純学会員のみの浄財によって竣工なされたものであります。
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
なかなか知る機会のない御宝蔵の相貌を、ここに少しくうかがうことができるのでした。
さて、この近代的新御宝蔵・戒壇本尊奉安殿の落慶は大慶事であったものの、このあたりから格別のご配慮によって特に許されるという「内拝」の意義の変質、すなわち世俗化・義務化といった悪弊の萌芽があったことなのでありましょう。
そうした憂慮こそは、宗門の最も大事な責務のひとつであろうことでしょうし、かりそめにもそうした留意があったならば、後において正本堂を「事の戒壇」とするような誑惑に、よもや加担することもなかったことでありましょう。
しかして「折伏の大賢王」の権威と、正本堂御供養金三百五十億円の財力とに、たちまち心をとろかされた宗門に、それは望むべくもないことでした。
そして今日においてまた、「三十万登山」の大号令を発して大御本尊を渡世の具とする宗門には、そうした<気付き>に思い至ることはないのでしょう。
(
平成十三年十二月十日、櫻川 記 )
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