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師子に吠える犬、言論界
十一月の総会は、たいへんにご苦労さまでございました。
日蓮大聖人様の御書のなかに『悪世末法』また『猶多怨嫉』と、たびたび申されております。たしかに『悪世末法』であり『猶多怨嫉』であるなということを、最近、またしみじみと感じたことがあるのです。
そのひとつとして、先日ある有名な、まじめな方から聞いた話なのですが、創価学会のことについては、昭和三十年ごろより、創価学会のいいことは放送界等において発表するのはやめよう、悪いことはどんどん報道しようではないかという申し合わせになっていたそうなのです。
それを聞きまして、まったくあきれた民主主義の国であるなと、おこるまえに、私はおかしくなってきたのです。これほどまでに世の中がゆがみ、そして利害にからみ、日本民衆の幸福を、日本民衆の正しいありかたを指導すべき使命を忘れている公器・放送界というものに対して、なさけなく思いました。
それは、なかにはりっぱな人もいると、私は思います。だが時代に流され、大勢の人に巻かれてどうしようもないであろうとは思いますが、りっぱな指導的立場である放送界に『具眼の士がいないのかな』と私はさびしい思いになっております。
しかし、必ずや広宣流布途上において、広宣流布を成就するためにおいては、戸田先生もよく申されましたが『言論界、放送界の協力が当然なくてはならない。また、協力をしてもらわなければ広宣流布はできない』と申されておりましたが、絶対に今後において、真実の民衆の声、幸福になりきっている何十万、何百万の大衆の声が放送界、言論界に反映しないわけは絶対にないと、私は思うのです。(略)
いいことも悪いことも、両方をそのまま報道するのが正しいわけです。悪いことだけを報道する、そんなバカなことはない。現実の社会の姿というものを、そのまま報道するのが報道人の役目であり、かんたんに考えても、道理のうえから考えても、当然であります。(略)
真実の宗教は、民衆のなかにあり−生活の原理であります。大衆から離れているものでも、生活から遊離しているものでもありません。いっさいが直結です。真実の信心は即生活法であり、生活はまた政治に連係します。即一です。いま、私たちがなさんとする広宣流布の理念は、大聖人様の『王仏冥合の仏国土を建設せよ』というご命令に基づいている闘争であります。
したがって、日蓮正宗創価学会の私どもは、大聖人様の信者であり、だれひとり宗教で飯は食べておりません。国士である。また、戸田先生は『宗教家であってはならない』とおおせになりました。(略)
昭和三十六年十二月五日
女子部幹部会
台東体育館
参加人員
一ニ、〇〇〇名
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
会長就任後ほぼ一年を経た池田会長の講演には、もはや「国立戒壇」の言葉は現れません。ただ、「王仏冥合の仏国土を建設」といった言い回しに、とどまるのでした。
さてここで、「いいことも悪いことも、両方をそのまま報道するのが正しい」という、池田会長の言葉は注目に値します。
後に、藤原弘達氏や内藤国男氏等に対する出版妨害・言論弾圧を命じた、その人の言葉と知って読むとくすぐったい感が否めません。
そしてまた、今や全国に豪華な温泉付きの専用施設を多く持ち、専用の医師団・弁護団・秘書団を擁して王侯貴族の生活を送る、その人の言葉と知って「だれひとり宗教で飯は食べておりません」を見ると、なにやら片腹痛い感は否めません。
(
平成十三年十二月三十一日、櫻川 記 )
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