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土木殿御返事講義
( 事相為る故に一重大難之れ有るか )
「 但し定慧は存生に之を弘め、円戒は死後に之を顕す。事相為る故に、一重大難之れ有るか 」
戒定慧の三学といって、仏法には必ずこの三つがあるのです。今時においては『定』とは本尊です。『慧』とは題目です。円戒の『戒』とは戒壇です。
したがって、大御本尊様建立、題目流布は、大聖人様の御存生のうちにひろめ、円戒すなわち本門の戒壇は、戒壇建立は、大聖人様の死後にこれを現わす、できあがるのです。
したがって、大聖人様のご命令です。本尊と題目はきちっと建立しておいた。あとは、戒壊の建立は、死後に必ずできるから、それを達成するのですよとの御遺命です。その御遺命をうけたのが、そして立ちあがったのが、日蓮正宗創価学会なのですから、これほどの喜びはないのです。
『事相為る故に』 観念論ではない。事実、三大秘法の御本尊様、事実、一切衆生が成仏できる御本尊様をあらわしました。また今度は事実、戒壇建立をなしとげるのです。その仏法であるがゆえに、大難があることは当然であります。いまだかつてない大仏法を建立するのですから、広宣流布するのであるがゆえに、大難があることは当然です。
したがって、迦葉とか、阿難とか、竜樹・天親は、末法においては耐えられないのです。この御本尊を流布すること、広宣流布することにおいては、それを耐えきって、れわれが今、戦っているのですから、われわれこそ地湧の菩薩であり、仏である。絶対の幸福をつかみきっていける資格のある、喜ぶべき因縁を甘受しなければ損だと私は思うのですよ。
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
すでに国立戒壇の語は隠れましたが、ここではいまだ本門戒壇建立をして「大聖人様のご命令」・「御遺命」とする思いと、「大難があることは当然」という認識は失っていないようでした。
しかして、迦葉・阿難・竜樹・天親等の正像の正師をして「末法においては耐えられない」などと言っておいて、池田会長はその数年後には国会証人喚問を怖れ耐えられずして、たちまちに国立戒壇を放棄したことでした。
とんだ 「地湧の菩薩であり、仏」で、あったことでした。
(
平成十四年一月四日、櫻川 記 )
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