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箱根の山へ逃げた池田大作
池田は自分の国会喚問をなんとしても阻止するために衆参両院の七十人近い国会議員を総動員し、各党の懐柔策を命じた。共産党を除く各党の理事を全部懐柔せよ、という号令が本部から全議員に指示されたのである。
そのため公明党の全国会議員は赤坂二丁目のクラブ石丸を拠点とし、今日は自民党理事、明日は社会党理事という具合に各党代議士連中を接待攻めにした。
その接待費は学会本部持ちで毎晩毎晩一流クラブや料亭へ誘い出した。各議員は接待が終われば拠点に戻って報告し、次の指示を仰ぐ。連夜の飲み食いで身体をおかしくする者まで現れる始末だった。
同じ時期、池田は突然、学会の機構改革を断行して副会長制を敷いた。会長の下に北条浩、森田一哉、秋谷栄之助の三人の副会長をおいたのである。この人事のナゾはのちに解けるが、要するに事態を悪化させるだけ悪化させたあげく、事件の張本人である池田大作には身勝手な自己保身しか頭になかった。
池田大作は一人で逃げた。
公明党議員に恥さらしなモミ消し工作を命じながら、自分は二月初旬、創価学会の箱根研修所へ逃避行を図り、同年春までその山の中に身を隠していたのである。
この逃避行の際、年末に軽いカゼをひいたのを幸い、自分から不調を騒ぎ立てた上で徹底して重病人を装った。その側についていたのが一番弟子・原島嵩教学部長(当時)ら子飼いの若手側近数人だった。原島はのちに月刊ペン裁判の証人に立った際、逃避行時の池田のデタラメな行状について自分の目撃談を明かしている。
「四十五年の言論出版問題の時は、会長になってはじめての経験で(池田氏は)狂乱状態のような時もありました。時には、午前四時(ごろ)にある女性が靴下もはかないまま、私たちを呼びにきたこともございました。非常に度を失っていた時期だったので、そうした場面にも遭遇したのではないかと思っています」
この時、原島と一緒に上田雅一現副会長も同行していた。そして、二人は逃避行中の池田大作の真の顔、ふしだらな女性関係をまざまざと見せつけられてしまう。その事実も月刊ペン裁判で原島は次のように証言している。(略)
池田会長を護るために、その信者・信徒たる国会議員・地方議員がどういうことをするのか、こうしてその一端が知られます。さんざん飲んだ後、その「接待が終われば拠点に戻って報告し次の指示を仰ぐ」というのは、国会議員と雖もいかにも「組織の歯車」然として、創価学会らしいという感がします。
昭和四十五年一月中旬、池田会長は直々に『折伏教典』を山崎元顧問弁護士に手渡し、「この中に、強要罪や、宗教法人法違反の内容があるという人がいるんだ。学生部の法学委員会で検討してくれないか。共産党が国会で創価学会の体質問題をやるといっている。国立戒壇から何から、ひとつひとつ総点検して対策を立ててくれないか」と指示したのでした。
そして昭和四十五年二月初旬、池田会長は創価学会の箱根研修所へ逃避行を図り、同年春までその山の中に身を隠していたのでした。まさしく佐渡御書の 「おごる者は必ず強敵に値いておそるる心出来するなり。例せば修羅のおごり、帝釈にせめられて、無熱池の蓮の中に小身となって隠れしが如し」そのものの姿と見えます。
その逃避行にあって池田会長の様子とは、「狂乱状態のような時」もあり「非常に度を失っていた」時期でもあり、重病人を装いつつ女性関係の状況までも、側近に目撃されていたのでした。
ちょうどその昭和四十五年三月、妙信講は護法の一念を四万二千余字に込め、「正本堂に就(つ)き宗務御当局に糺(ただ)し訴う」と題する一書を、猊座を守るべき宗務院役僧と池田会長以下の学会首脳、あわせて十二人に送附したのでした。
日がな一日温泉三昧でふやけ・腑抜けていた池田会長は、さぞ驚いたことでありましょう。
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