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これでも池田大作を信ずるか -- 創価学会の友に訴える --
第一章 信じ難い現実
どれが本当の指導なんだ
( 池田会長の嘘言症的言辞 )
引用文に見るような巧言令色で私達創価学会員の御本尊様への御供養の熱意をあおり利用し、最後にそのまごころを裏切ったとは、仏教史上、いや人類史上最低の不徳義漢とののしられても、多少の良心があるならば、弁解の言葉もないのではあるまいか。
と同時に、このようなペテン師的手口を理解できないで、ただ池田会長と創価学会幹部のいいなりになってきた、私達末端の創価学会員もおおいに自らを反省しなけれはならないのではないだろうか。
創価学会員が日蓮正宗信徒であるならは、依るべく信じ奉るべきは池田会長ではなく、日蓮大聖人の御金言なのだから、自分で自分のいったことを否定していることでもはっきりしているように、池田会長や創価学会の間違った指導を、丸呑みにしてきた私達は、日蓮正宗信徒として非常に危険な立場にいることを自覚しなければならない。
それにしても、池田会長のこのような嘘言症的言辞は、まだ他にもあるのだから、嫌になってしまう。さきに引用した
1) 2) 3) で明白なように、池田会長は“国立戒壇”という言葉を随所で述べていた。
ところが昭和四十二年ごろになると、折に触れては“国立戒壇”を否定している。そのありさまは、まさになりふり構わぬ強弁といえる。池田会長発言の自家撞着を列挙し批判しようとすれば、それだけでぶ厚い一冊の本ができるだろう。それほど、いうことに一貫性がない。目先の都合だけで、クルクルと変っているのだ。
くり返し思うのだが、こういう池田会長の言動に不信を抱かずにきた私達創価学会員は、人間(ホモ・サピエンス)の特性である“考えること”を放棄してきた、としか考えられないのではないだろうか。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加
)
下山氏の指摘は厳しく 、「巧言令色で私達創価学会員の御本尊様への御供養の熱意をあおり利用し、最後にそのまごころを裏切ったとは、仏教史上、いや人類史上最低の不徳義漢」と言われます。
同時にまた、「こういう池田会長の言動に不信を抱かずにきた私達創価学会員は、人間(ホモ・サピエンス)の特性である“考えること”を放棄してきた」と、自ら腑を裂く痛恨の反省・省察がなされるのでした。
しかして憎むべきは、池田会長の自己保身と政治野心のための「なりふり構わぬ強弁」であり、「一貫性」のない「目先の都合」で「クルクルと変わ」る「“国立戒壇”否定」の「嘘言症的言辞」であり、さらにはその誑惑に加担して恥じない宗門の無道心でありました。
(
平成十四年五月二十一日、櫻川 記 )
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