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これでも池田大作を信ずるか -- 創価学会の友に訴える --
第一章 信じ難い現実
どれが本当の指導なんだ
( 低次元の詭弁 )
きりがないから、一、二例だけ挙げよう。
15) 「よく戸田先生は『天皇が信心したいといってきたときに、他の邪宗では、御本尊様をおあげすることができるか』と。また『天皇が信仰するまで、戸田は待つ。戸田は日本第一の忠義な者である』という意殊のことを申されておられた。先生の申されたことが、ただひとつとして成就されえなかったことはない。
……また、国立競技場、国立美術館、国立公園等も、すべて国民の要望であり、国民のものである。宗教にあっても、最高の宗教が国民の幸福のために、国立戒壇として建立されることは、必然でなくてはならぬ」(池田会長、「会長講演集」 四)
16) 「(本門戒壇は)ただ全民衆のためであり、全民衆の意思の結果によるべきものであることは明白であります。このように大聖人ご自身が、戒壇は、民衆立であることを示されているわけであります。その証拠に、大聖人の御書全集のなかに『事の戒壇』『本門の戒壇』とは、おおせになっておりますが、『国立戒壇』という語句は、一ヶ所もないのであります」(「大白蓮華」、昭和42年6月号)
「国立戒壇」という語句が御書の中にないというが、それでは「民衆立」という語句はあるというのか。
逆に、「勅宣並に御教書を申し下して……戒壇を建立す可き者か」(三大秘法抄)、「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(身延相承書)というような、明らかに「国立戒壇」と拝すベき御金言は、御書のなかにみられるのである。
“国立戒壇という語句が御書にない”などというのが、いかに低次元の詭弁であるか。こういう貧しい発想の持主が私達創価学会の会長であったとは!
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加
)
下山氏は、池田会長による“国立戒壇という語句が御書にない”の言説を「低次元の詭弁」と、一創価学会員としての自己批判の意も込めて一蹴するのでした。
たしかに、あとからにわかに採って付けた<理屈>であれば、「低次元の詭弁」に他ならないのでしたが、それはある意味では幸いであり・またある意味では二重の不幸でもありました。
ある意味で幸いとは、池田会長とそのブレーン達が御遺命歪曲のため必死に知恵を絞っても、「低次元の詭弁」にして「貧しい発想」しか展開し得なかったことでした。
そしてまた二重の不幸とは、御遺命の正義を元より百も承知の池田会長等が、御遺命歪曲のため「低次元の詭弁・貧しい発想」しか為し得なかったにもかかわらず、創価学会員も宗門僧侶等もことごとく「人間(ホモ・サピエンス)の特性である“考えること”を放棄」し、唯々諾々とその程度の「低次元の詭弁・貧しい発想」に従ってしまったことでありました。
正系門家にあって、貫首をはじめとしてことごとく「飮他毒藥」にして「毒氣深入・失本心故」の事態にあって、ひとり妙信講だけが護法の一念強き故に、「或不失者」(妙法蓮華経、如来寿量品)であったことでした。
(
平成十四年五月二十三日、櫻川 記 )
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