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これでも池田大作を信ずるか -- 創価学会の友に訴える --
第一章 信じ難い現実
どれが本当の指導なんだ
( 池田教狂信者 )
17) 「かつて戸田前会長のときに、国立戒壇という名称を用いたのも、真意はあくまでも民衆立という意味であり戸田前会長も、みずから民衆の純真な信心の確立なくして国家権力で戒壇を建立しても、かえって仏法を破壊するものであると断言しております」(同上)
ここで池田会長は、こんどは戸田前会長をダシに使っているから、戸田前会長のお話を引用してみよう。
18) 「仏法、王法に冥じ、王法に合するその時をつくるのが広宣流布の下地です。その時機をつくらなかったならば、ただ広宣流布、広宣流布というだけです。『勅宣並びに御教書』(三大秘法抄)とおっしゃっているが、勅宣とは、天皇陛下のお許しです。御教書とは、国会の許可です。……ただ勅宣ならびに御教書を申し下すという日蓮大聖人のご命令に答えて行かねばならない、そして、本門戒壇を立てればよい」(戸田城聖、「質問会集」 創価学会刊)
これらの引用文を読みくらべるとき、自分のいった“国立戒壇”否定のために、池田会長が論理のスリカエやゴマ化しにいかに腐心しているかがよくわかる。
池田会長自身は自分の都合で前言否定をするのだが、その指導をうける私達創価学会員はたまったものではない。まるで、オモチャかコケのようなものではないか。
きちんとした総括、清算のうえで新しい指導がうち出されるならともかく、このような、シッポをつかまれたパクリ屋の言い訳みたいな指導に従っていた私達は、“池田教狂信者”と嘲笑されても、一言もないのではなかろうか。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加
)
下山氏はこうして事実に基づいて、「自分のいった“国立戒壇”否定のために、池田会長が論理のスリカエやゴマ化しにいかに腐心しているかがよくわかる」と述べるのでした。
そしてまた、「池田会長自身は自分の都合で前言否定をするのだが、その指導をうける私達創価学会員はたまったものではない。まるで、オモチャかコケのようなものではないか」と、その感慨を語ります。
さらにまた、「シッポをつかまれたパクリ屋の言い訳」みたいな指導に従っていた私達は、“池田教狂信者”と嘲笑されても一言もない」と、苦渋の言をあえて為すことでありました。
以て、「他山の石」ならぬ「自山の石」とせねばならぬ人々は、数多あることでありましょう。しかして妙信講(顕正会)員のみは、その「仏法中怨」の責めを免れること、「師は針の如く、弟子は糸のごとし」の故でありました。
(
平成十四年五月二十五日、櫻川 記 )
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