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これでも池田大作を信ずるか -- 創価学会の友に訴える --
第一章 信じ難い現実
どれが本当の指導なんだ
( 教祖信仰にも似た己の姿 )
公明党の問題もからむので、もう一例引用しよう。例の悪名高い言論弾圧・出版妨害事件で、社会から集注攻撃をうけた後、“政教分離”などが打ち出された総会講演である。
19) 「……したがって政治進出は戒壇建立のための手段では絶対にない。あくまでも大衆福祉を目的とするものであって、宗門、学会の事業とは無関係であることを、再度確認しておきたい」(「大白蓮華」、昭和45年6月号)
これを引用 3) の文章とくらべて欲しい。この正反対の二つの指導が、同一人物の口から出ているのである。
“大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべきどうしても通らなければならなかった選挙”によって政界に出たはずが、どうして“政治進出は戒壇建立のための手段では絶対にない”ということになるのか。“宗門、学会の事業とは無関係”になってしまうのか。
正常な頭脳の所有者に、この論理の推移が理解できるだろうか。もし、これらの自家撞着で満された池田会長指導を理解した上で拳拳服膺していたのだとしたら、私達創価学会員は、自分達の頭脳に絶望しなけれはならないのではないかしら。
もし理解もしないで盲従してきたのだとしたら、近代人としての没主体性を恥じるまえに、新興邪宗徒の教祖信仰にも似た己の姿を、日蓮正宗信徒として正しかったかどうか、省みるべきではないだろうか。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加
)
下山氏の自己批判は、さらに続きます。「これではまるで詐欺ではないか」・「自家撞着で満された指導」と述べ、「嘘言症的言辞」・「低次元の詭弁」と云い、「池田教狂信者」・「教祖信仰」と語っては、己の姿を鏡に浮かべるのでした。
「外道悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず仏法を破るべし」(佐渡御書)の鏡に、わたしたちも心して己の姿を映してみるべきでありましょう。
(
平成十四年五月二十七日、櫻川 記 )
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