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文化は宗教を必要とするか ( 現代の宗教的状況 )
プロローグ 弁証学としての文化の神学
( 宗教システムのラディカルな変動 )
本書では一七世紀のプロテスタンティズムの経験した宗教システムのラディカルな変動を「プロテスタント的経験」と呼んだ。それは宗教システムだけではなく、それを超えて社会システム全体のラディカルな転換を生み曲した「経験」でもある。
それではそのプロテスタント的な経験とは何であろうか。それは今日の用語で一般化して言うならば「市場化」や「民営化」、あるいは総称的に「自由化」と言ってもよいかもしれない。本書が注目するプロテスタンティズムの伝統はこのような今日の世界の運命をすでに三百年近く前に経験していたと言ってよい。
ここでは、民営化や市場化の歴史的な意味での起源が三百年前のプロテスタント的な出来事に遡るのかどうか、という歴史問題は取り上げない。それは歴史学や社会学をも含んだ総合的な視点から判断されるべきものであり、ここでの課題を越える問題である。
しかしある特定のプロテスタンティズムは、まさにこの市場化、民営化と今日呼ぶような出来事としての自由の経験から生じたものなのである。
それ故に、この「プロテスタント的な経験」に基づいて構築された近代世界の解釈原理は、近代世界に生じている社会システムを説明するのにもっとも適した視点なのではないだろうか、というのがラディカル・プロテスタンティズムの主張ないしは、仮説なのである。
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
この“宗教システムのラディカルな変動”を顕正会に引きつけて考察してみれば、それはおそらくはこうしたことを示唆することでしょう。
“一国同帰・国立戒壇”の成就の後、やがて二つのことが始まりましょう。一つは次のステップである、一閻浮提広宣流布への展開。もう一つは<世俗化>、すなわちふたたび“市場化”“民営化”“自由化”への潮流でありましょう。
( 平成十四年十二月九日、櫻川
記 )
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