挽歌(一) "浅井昭衛会長 逝去"
宗教法人「顕正会」 浅井昭衛会長が、令和5年10月16日未明 逝去された。
9月度総幹部会の2日後に体調を崩し、それから急激に衰えて行ったという。
生涯現役にして ピンピンコロリ、それは理想的な終焉といえるだろう。
昭和41(1966)年4月から浅井昭衛会長に師事し、その生涯を見届けた者として溢れる懐いは尽きない。
歴史的な評価は今後なされて行くだろうが、いま暫時その総括を試みれば その功罪は、両極端に渡る。
"
浅井昭衛会長が宗門に求めたこと" という視点から見れば、大きく括ればこのようになるだろう。
宗門が池田大作会長の圧倒的な影響下にあった時、「正本堂は御遺命の本門戒壇に非ず」と糺し訴えた宗門人が、誰かあっただろうか。
浅井昭衛氏の、その功績を否定することは、誰人もできない。
"浅井昭衛会長が宗門に求めたこと"
◯ 全国法華講連合会への不参加
△ 本山総登山(妙信講)の歎願
◎ 正本堂は御遺命の本門戒壇に非ず
◯ 全国末寺での本尊下附
△ 国立戒壇を宗門の公論に
◯ 池田大作会長の宗門追放
◯ 本部会館(妙縁寺重宝)本尊守護
✕ 妙信講(顕正会)解散処分の撤回
◯ 本門寺改称 断じて許さず
◎ 大御本尊の奉安殿への遷座
✕ 奉安堂の建設を取りやめよ!
△ 阿部日顕管長の懺悔
✕ 一凶三悪の宗門追放
✕ 阿部日顕管長への対決申し入れ
✕ 完全免震の新御宝蔵を作り奉れ
✕ 不敬の御開扉の即刻中止
しかして、"
浅井昭衛会長が道を違えたこと" は、あまりにも多い。浅井昭衛という人物は、大観してみれば「修羅の人」なのだ、とわたしは思う。
宗教法人「顕正会」 の、異常な組織運営や組織の歪みのすべては、浅井昭衛会長に起因している。
"浅井昭衛会長が道を違えたこと"
・ 解っていながら増長し、宗門に対し「在家の本分」を違えた
・ 国立戒壇(名称)否定の当否を、世俗の「法廷闘争」に求めた
・ 大地震・経済破綻・人類滅亡などの脅威を以て、会員をノルマに奔走させ続けた
・ 友人のいない孤独な生涯、支配するか支配されるかの関係、しか構築できない
・ 唯我独尊の組織運営、有能な幹部ほど保身のため、理不尽な理由で尽く排除した
・ 日蓮大聖人の権威を自身に投影し、「無二の師匠」と会員に仰がせた
・ 伝統の教学指導を停止し、会員の幼稚化・低能化を促進した
・ 三百万、一千万、六千万などと、無謀な数値目標を掲げ、会員を駆り立てた
・ 御書全集発刊など、できもしない事業を掲げ会員を欺き、釈明すらしない
・ 阿部日顕管長には対決を申し入れるが、大草一男講頭からは対決を逃げる
・ 会員に無謀・過酷なノルマを課し、多くの会員の人生を破綻させた
・ 自身の親族ですら幸せにできない、長男は再起不能、娘婿は放逐排除
・ 見せかけの会員数、二百万会員と豪語しても実質活動会員は、数%というゴマカシ
・ ノルマに追われた会員が、路上生活者や外国人を勧誘することも容認
・ 機関紙購読や広布御供養、ノルマ達成のため幹部の金銭立替も容認
・ 会員名簿すら満足に整備しない、脱会者や死亡者も反映されていない
とまれ、 教団組織の一切を仕切っていた浅井昭衛会長は、もはや不在となった。
宗教法人「顕正会」はこれから、
どのような行く末をたどるのだろうか。
"宗教法人「顕正会」の行く末"
・ 浅井城衛・新会長に、"国家諌暁" や "宗門諌暁" は力不足にして、望むべくもない
・ 当面は組織として、故・浅井昭衛会長が号令した "三百万" を目指すだろうが、その暁に「国家諌暁」等
の目標が示されなければ、活動の沈滞は免れない
・ 現役活動会員の多くは、目標を見失って離脱して行くだろうし、その一部は宗門に帰伏して行くだろう
・ 宗教法人「顕正会」は、わずかの岩盤支持会員によって浅井一族の生活基盤を支えるだけの教団、となる
ことだろう
以上、取り急ぎ点描した事柄を今後、詳細に論述して行く所存である。
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