顕正会の崩壊は近い


浅井会長の実現不可能な「誇大妄想」を直視しよう!
 

 

      顕正会発足五十周年記念幹部大会


 こんにちは。先程から、この広い大会場を見渡しておりますけれども、日本一のこの大会場を、三万人が結集するというのは、誠に、言葉にならぬ大感動であります。
 私はつくづく思う。「いま広宣流布の最後の段階に、地涌の流類が、過去の宿縁を以て続々と馳せ参じている姿がこれなんだ」いうことを思い、胸が一杯になってまいりました。
 本日は、第二の五十年を迎えまして、皆さんには、全国から遥々、よくぞこの信州の地に馳せ参じてくれました。この信心の真心、私は心から有難く思っております。

 この信州というのは、大聖人様が、佐渡御流罪になられたときに、大聖人を強く憎んで、怨をなした地であります。
 当時、信州の人々は、みな念仏を信じていた。ゆえに、佐渡に流される大聖人様を見ては、氷のような目で以て睨みつけて、口々に「阿弥陀仏の敵」と罵った。そして、佐渡からお還りになるときには、大聖人様を、善光寺に数百人の坊主どもが集まって、待ち伏せをして殺害しようとしたんですね。
 それほど大聖人を憎み、怨んだこの信州の地において、いま広宣流布の前夜、大聖人様に忠誠を貫く三万の仏弟子が集うて、命賭けてのご奉公を誓い奉る本日のこの幹部大会。私は、大聖人様は必ずご照覧あそばすものと、深く拝しておりますが、皆さん、どうでしょうか。(拍手)

 また、顕正会は発足当時、法華講の一講中として、妙信講と名乗っておりましたけれども、この妙信講に対し、「熱原の法華講衆の如く、戦う法華講となって、広宣流布にご奉公せよ」 異例の認証を、総本山でして下さった、第六五世の日淳上人、またこの日淳上人のご命令で、妙信講の指導教師に就任されて、陰に陽に妙信講を庇護下さって、解散処分のときには、「国立戒壇が正しいのだ」「妙信講は正しいのだ」と言って、妙信講と運命を共にして下さった妙縁寺住職の松本日仁能化、このお二方のご恩、私は、終生忘れるものではありません。
 そして、何よりも、本日この席に、もし… 初代講頭先生がおられたら… どれほどお喜びかと、私は先程から思っておりました。
 私は少年のとき、この父から富士大石寺の信心を教わった。父は妙信講の基礎を築き、試練と忍従のときには辛酸を舐めて、そして御遺命守護の戦いの道半ばにして、見事な臨終を示して、霊山に旅立たれました。私は、御遺命守護の戦いにおいて、宗門・学会に諫暁書を書き上げるたびに、いつも直ぐに、父にこれを見せました。父はいつも、ニッコリ笑って喜んでくれた。その… 初代講頭先生が、もし本日、この幹部大会をご覧になったら、いかにお喜び下さるか。そのお顔がいま瞼に浮んでまいります。

 顕正会は、昭和三二年八月、ただ広宣流布だけを見つめて発足致しました。その七年後には池田大作が、正本堂のたばかりを企てているのであります。いまにして思えば、もし妙信講の発足が、あと数年遅れていたら、大事のご奉公に間に合わなかったに違いないと思っております。しかし、間に合って、大聖人様のご命令を聞き奉り、御遺命守護に立つことが出来た。そして、あの正本堂の崩壊という大不思議を、大聖人様の御力によって、見せて頂いたのであります。
 そして、もう一つ、私には不思議に思うことがあります。それは、解散処分を受けた顕正会が、そのことを機として、ご在世の信心に立ち還り、いま一二二万の仏弟子の大集団となって、日本の中で唯一つの広宣流布の団体となったことであります。これ全て大聖人様の御守護である。また「御命令なのだ」と、こう私は拝しております。
 いいですか。死罪に等しき解散処分を機に、自然と顕正会は遥拝勤行で広宣流布を進めるという、腐敗堕落の宗門では考えられない、ご在世の厳格なる信心に、立ち還ることが出来た。あの解散処分がいかに卑劣なものであったか。あのビデオを見ればわかりますよね。学会は二度も文書で訂正したんです。また細井管長は、訓諭まで訂正したんでしょ。
 しかし、彼らは、顕正会が存在する以上は、いつかは御遺命破壊の大悪が露見するということを恐れて、解散処分を下した。顕正会を抹殺しようとしたわけであります。彼らは、「登山をさせないで、御開扉をさせなければ、顕正会は必ず潰れる」こう思ったに違いない。しかし見てご覧なさい。熱原の方々は大聖人様にお目にかかることなく、あのご奉公を貫かれたではないか。大進房・三位房は、大聖人のお傍にいながら退転して、大罰を受けているではないか。このように、信心は形ではないんです。

 そして、実は、池田大作・細井管長は、顕正会を抹殺させる為に、「登山をさせない、御開扉をさせない」こう言いましたが、彼らが言い分にしていた御開扉こそ、実は大聖人様の御心に甚だしく背くものであったのであります。
 日興上人、日目上人の昔には、御開扉などということは全くなかったのです。
 いいですか。戒壇の大御本尊様は、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人の御当体であられる。この大御本尊様は、日本一同が日蓮大聖人に帰依し、恋慕渇仰の信心一国に漲るとき、始めて国立戒壇にお出ましになる。それまでは、御宝蔵に固く、秘蔵し奉らなければいけない。
 ゆえに、日興上人、日目上人の上代には、御開扉などということは全くなかったんです。ひたすら御宝蔵に秘蔵し奉り、その上で、広宣流布を熱願しての、あの日興上人、日目上人時代の、日本列島を又に掛けての、大規模な折伏が行われたのであります。
 しかし、いつの時代からか、遠き広宣流布を待ちかねて、強信の者にのみ、密かなる内拝が行われるようになった。これはまだ許される範囲かも知れない。しかし、大正時代以降になると、御開扉は当たり前のようになってしまった。これは大聖人の御心に大いに反するんですね。このことについて、昭和初期の貫首である、大学匠の聞こえ高い第五九世 堀日亨上人は、富士日興上人詳伝の中で、こう記されております。
開山上人(日興上人)は、これを弘安二年に密附せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのである」「日興上人は、戒壇の御本尊を弘安二年に密かに付嘱せられて、まさしく広宣流布のときまで、苦心して、秘蔵あそばした
しかし、いずれの時代(中古)からか、遠き広布を待ちかねて特縁により、強信により、内拝のやむなきにいたり、ついには今日のごとき常例となったのは、もったいない事である
 こう堀上人は言っておられる。これを拝見すれば、日興上人、日目上人の上代には、御開扉など、全くなかったことが良くわかる。そして、時代と共に内拝の精神も崩れた。「いつでもお目にかかれるんだ」という、狎れ切った、崩れた信心になってきたことが良くわかるんですね。そして、さらにさらに、現在では崩れてきたんです。
 寿量品には、「常に我を見るを以ての故に、而も憍恣(きょうし)の心を生じ、放逸にして五欲に著し、悪道に堕ちなん」とある。仏様にいつでもお目にかかれると思うと、凡夫というのは、驕った気持ちを起こすんだ。そして、「厭怠」と言って「もういいよ」こういうような罰当りな気持ちさえ起こす。そこで「悪道に堕するんだ」と言っておられる。ですから、そのような御開扉には功徳がない。
 また同じく寿量品には、「一心に仏を見奉らんと欲して、自ら身命を惜しまず 時に我及び衆僧倶に霊鷲山に出ず」(「一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山」)
 どういう意味か。即ち、「一心に仏を見奉らんとの身命も惜しまぬ信心が一国に漲ったとき、始めて戒壇の大御本尊様は、国立戒壇にお出ましになる」。それまでは、戒壇の御本尊は、一切誰もお目にかかれない。
 久遠元初の自受用身のお姿というのは、まさに「一心欲見仏 不自惜身命」の信心があって、始めて衆生の前に御出現になるんだ、いうことであります。このように戒壇の大御本尊様を、広布の暁まで秘蔵し奉るというのは、仏様が一切衆生を化導あそばす上での、重大なる定めなのであります。

 しかるに今、広布の前夜、第六天の魔王その身に入った池田大作と、それに諂った細井日達管長は、一体どれほどの不敬をしたかと言いますと、あろうことか国立戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊を、国立戒壇を否定する為の正本堂に据え奉った。
 即ち、戒壇の大御本尊を、正本堂のたばかりの道具に利用したということであります。これほどの不敬冒涜がまたとあろうか。さらに、その正本堂が崩壊した後も、阿部日顕らは、法華講員に「登山せよ、登山せよ」と強要しては、御開扉を収入の道具とした。
 日寛上人は、信心なき僧侶は、「仏法を渡世の橋とする」とおっしゃっておられますが、まさしくそうですね。戒壇の御本尊を金儲けの道具にする。こんな罰当りのことがあるか。まさに「法師の皮を著たる畜生」である。これが、広布前夜の濁乱の宗門の姿であります。
 その中に、顕正会は、御遺命のゆえに解散処分を受けるとも、それを機に、かえって日興上人、日目上人の昔に還ることが出来た。いま顕正会員は、北は北海道から、南は沖縄の島々に至るまで、みな我が家より遥かに富士大石寺の戒壇の御本尊様に向かい、南無妙法蓮華経と唱え奉っている。この恋慕渇仰の切なる信心が、一国に漲ったときが広宣流布であり、そのとき大御本尊様は国立戒壇にお出ましになるのであります。このけなげな戦いは、顕正会にしか出来ない。
 まさしく大聖人様が、顕正会をして立たしめ、広布最終段階の戦いを、成さしめ給うておられるのだと、私は深く拝しておりますが、皆さん、どうでしょうか。(拍手)

 そして、この清らかな遥拝勤行がどれほど功徳があるか。いいですか。戒壇の御本尊というのは、一閻浮提総与なんですね。一閻浮提の一切衆生に総じて授与して下さった。全人類に授けて下さった。こういう御本尊様であります。ですから、私たち一人ひとりは実は、戒壇の御本尊様に直接つながっているんです。私たち全体に下さったんです。
 ですから、遥拝勤行においては、距離は問題ではない。どれほど離れていても、直ちに大御本尊様に通ずる。大聖人様は、遠く離れた佐渡に住んでいた千日尼に対して、こう仰せられた。
雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ
 昔中国の雷門に置いてあった鼓は、それを打つと、千万里離れた所に直ちに聞こえたっていうんです。
御身は佐渡の国にをはせども」千日尼は佐渡の国に住んでいても、「心は此の国に来れり。御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」 どんなに離れていても、直ちに、心こそ堅固ならば、信心さえ純粋ならば、大聖人様に通ずるということであります。「心こそ大切なれ」ということであります。
 ですから、勤行のときは、「大聖人様眼前にまします」の思いで、日蓮大聖人の御名を、御名前を、南無妙法蓮華経と唱え奉る。「名は必ず体に至る徳あり」 その仰せの如く、御名を唱え奉れば、その体である戒壇の大御本尊と日蓮大聖人に直ちに通じ、不可思議の功徳が、その人に顕れてくるのであります。
 日寛上人は、この御本尊の功徳について、法華取要抄の文段にこう仰せになっておられる。
蓮祖一期の弘法の功徳、みなことごとく本門の本尊に結帰するなり。ゆえに本尊の功徳無量無辺にして、心の及ぶところにあらず、言葉の述ぶるところにあらず
 凄い文でしょう。大聖人様が一代三十年の間、流罪・死罪を耐え偲んで、この三大秘法を弘通して下さった。その大聖人様のお積みになった大功徳が、全てこの御本尊に納まっているのだ。ゆえに「この御本尊の功徳は無量無辺で、心も及ばない。言葉で述べることも出来ない」と、こう仰せになっておられる。
 だから、この御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱うれば、忽ちに、凡夫の濁った心に仏様が宿る。心法が変わってくるんですね。また、宿命の氷も必ず溶けてくる。
 譬え、修行の途中で難に遭うことがあっても、必ず、「災いは転じて幸いとなる」「毒は変じて薬となる
 だから私はいつも言う。「何があっても大丈夫だ」ということなんですね。「こんなことが起きて…」いうようなことが起きても、その強い信心で乗り越えれば、「毒が変じて薬となる」いうことを私たちは体験させて頂ける。そして、ついには一生の内に成仏が叶うのだ。
 その成仏の証拠が、臨終にハッキリと顕れるんですね。仏法とは凄いでしょう。天国だなんだという観念論ではない。成仏するということが、現身に、最後の臨終の相に顕れるから、何と凄いことか。私は顕正会員の良き臨終の話を聞くたびに、いつも有難さが込み上げてくる。誰の話を聞いても、「有難い」。御本尊様は何と有難いのか。そしてまた顕正会員が、けなげに御本尊を信じて、その信心修行を臨終まで続けてくれた、このけなげさが、何とも私は有難く思うのであります。
 一生成仏と一口に申しますが、仏法の常識から言えば、いかに成仏ということは難しいことなのか。
 釈迦仏法では歴劫修行といって、凡夫とは違う、優れた菩薩たちが、気の遠くなるような時間、生まれ変わり死に変わり、生死を繰り返しながら仏道修行を続けて、最後やっと仏になれるというんです。ところが、日蓮大聖人の下種の仏法では、我ら凡夫が、わずか一生の間、それも数年か数十年、この短い間の信心修行で以て、成仏させて頂ける。
 また釈迦仏法では六度満行と言って、その修行というのは、或いは布施行をしたり、戒律をたもったり、或いは智恵の力で以て哲学的な思索をしたり、難しい複雑な修行がある。
 ところが、大聖人様の仏法では、一念信解だけで良い。難しいことは何もわからなくても、ただ御本尊を信じて、「有難い」「お慕わしい」こういう思いで南無妙法蓮華経と唱え奉れば良い。私たちに、智恵や覚りはなくても、御本尊様に無量無辺の功徳ましますゆえに、一念信解で以て成仏が叶うんですね。この一念信解の唱題修行ならば、三歳の子供でも出来る。世界中の人々が出来る。大聖人様は、この最大深秘の根源の大法を以て、全人類をお救い下さるのであります。
 深い仏法、力のある仏法、根源の仏法ほど、修行は簡単なんです。一本の木を見てご覧なさい。亭々たる大木がある。枝や葉っぱは複雑である。だけど、元を訪ねれば、種は一つです。根源は非常にシンプルなんです。
 ですから、釈迦仏法はたいへん複雑な教義で入り組んでいるけど、それを発生せしめた元を訪ねていけば、久遠元初の南無妙法蓮華経の成仏の種一つに納まる。だから、いま私たちは久遠元初に立ち戻った末法において、南無妙法蓮華経と唱え奉るだけで以て成仏出来る。日本国が平和になる。全世界が救われる。この大仏法を以て、大聖人様は全人類をお救い下さる。

 いま私たちは大聖人の弟子として、一念信解で広宣流布に戦っている。そうすると、仏教をかじったような世間の学者はバカにするかもしれない。「何も知らないで、ただお題目を唱えて何だ」なんて言うかもしれません。こういうことは御在世にもあった。
 それを大聖人様は、一念信解で広宣流布に戦う弟子の仏法上の位はどのようなものか。これを四信五品抄に教えて下さっておられる。
 まず世間の者の質問を挙げてこうおっしゃっている。「問う、汝が弟子一分の解無くして、但一口に南無妙法蓮華経と称うる其の位如何」 世間の者が、大聖人に向かって、「汝の弟子は、何にもわからないで、ただお題目を唱えているだけではないか。そのような無智の者の仏法上の位とはどんなもんか?」
 大聖人答えられて曰く、「此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず、将又真言等の諸宗の元祖、畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり。請う、国中の諸人、我が末弟等を軽んずること勿れ
 どういうことかと言いますと、「一念信解だけの我が弟子たちは、釈迦仏法の四十余年の経々を覚り極めた菩薩たちよりも勝れているのみならず、世間に仏の如く尊敬されている真言等の諸宗の元祖等に勝れていること百千万億倍である。どうか、日本国中の諸人よ、我が末弟を軽んずること勿れ」こうおっしゃる。有難いことでしょう。私たちに智恵はなくとも、御本仏日蓮大聖人の弟子として、久遠元初の大法を持つゆえに、このように私たちの位は高いのであります。
 私はこの大聖人の仰せを聞いていつも思うんです。大聖人様が、「我が末弟を軽んずること勿れ」とお守り下さる以上は、私たちは胸を張って一念信解の大潮流を起こして、大聖人様に応えなければ申し訳ない。さあ、この大確信で、一気に広宣流布を進めて行こうではないか。どうでしょうか。(拍手)

 さて、いよいよ第二の五十年に突入致しました。この第二の五十年こそ、大聖人様の大願である、唯一の御遺命であられる広宣流布・国立戒壇が、事実となるんです。では、この広宣流布は、どのような経過を経て実現するのか。私たち凡夫にはわかりません。そこで、大聖人様の仰せを拝するのです。
 減劫御書には、「大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ
「全世界がうち乱れるようなことがあって後、始めて世界広布が実現する」ということであります。
 また撰時抄には、「其の時天変地夭盛なるべし。乃至、前代未聞の大闘諍一閻浮提に起るべし。其の時日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ、或は身ををしむゆへに、彼のにくみつる一の小僧を信じて、一同に南無妙法蓮華経ととなうべし
「広宣流布の前には天変地夭が盛んになる。前代未聞の大闘諍が世界的な規模で起こるのだ。その時に、その大闘諍で国亡び、命を失う怖さから、一切衆生は、今まで憎みつる一人の小僧 (小僧とは小僧(こぞう)ということですよね。位も何もない大聖人の御事ですね)、今まで憎んでおった、軽んじておった日蓮大聖人の、大功徳に目覚めて、一同に南無妙法蓮華経と唱うるのだ」いうことを仰せになっておられます。
 即ち、「国家的な大罰が顕れなければ、広宣流布にはならない」いうことを大聖人は仰せになっておられるのであります。このゆえに私は、第二の五十年が、「まず大罰が顕れる時代なのだ」いうことを思っております。

 日本の国は、この国にご出現せられた大慈大悲の御本仏の御頸を刎ね奉らんとしたんですよ。もったいない。久遠元初の御本仏の御頸を、念仏の坊主たちに煽動されたとはいえ、国家権力が、頸を刎ね奉ろうとした。大聖人に絶大威力があるから御頸は飛ばなかったけど、本当に殺そうとしたんです。
 これほどの大逆罪をしておきながら、未だに日本国は大聖人に背き続けている。このまま国がもったら仏法は嘘になるじゃないですか。それが700年を経て、いよいよ罰が出てくるんです。
 七百年というのは、日本に仏法が渡って来たのは聖徳太子の頃であります。欽明天皇の御世である。それから七百年の後に、御本仏大聖人が出現しておられる。大聖人ご出現してより、七百年、いよいよ広宣流布、背き続けた日本に、大罰が顕れて広宣流布が実現するんです。
 しかも、そのときに、同時に、「仏法は体、世間は影」であれば、正系門家は国家の命運に重大な影響を持っております。この正系門家の信心が、濁り切って、大事の御遺命まで破壊せんとした。
 このように、仏法の濁乱、国家の捨離、これが重なって来たことによって、いま日本に大罰が顕れるのであります。 
 ゆえに私は、御遺命守護に立ち上がった四十年前から、「必ず日本に巨大地震、異常気象の後、他国侵逼の大罰が起こる」いうことを言い続けてまいりました。そして、そのことは平成九年の第一回の諫暁書にも、平成十六年の諫暁書にも、具に記しておきました。そして、いよいよその大罰が、この第二の五十年に、顕れんとしているのであります。

 まず、首都圏の大地震については、私はいつも引きますけど、石橋克彦博士という、この人は権威でありますが、平成六年にこう述べておりました。
 「今から十年~二十年のうちに、日本の心臓部を小田原、東海、首都圏直下の大地震が、相次いで襲う可能性が高い
 この記述から見ますと、平成六年から既にもう十三年経っているんですね。ですから、まさに、いつ起きても不思議ではないという時代に入っている。
 そしていま小田原地震については、その発生が極めて近いということを、一観測機関が、データを示して発表しております。
 また東海地震については、この地震を、静岡県で二十年以上も観測し続けて、権威と言われている防災科学研究所の総括主任、松村正三博士が、今月二十日の地震予知連絡会において、こう述べております。
 「現在収束しているスロースリップが、次に始まったときが危ない。前回のスロースリップは東海地震へとはつながらなかったが、次に始まったときは、そのまま東海地震の発生まで行くと思われる。私は、二〇一〇年が一つの節目ではないかと懸念しております
 こう述べております。「この東海地震が引き金となって、東南海、南海という、いずれもマグニチュード8を越える巨大地震が連動して発生する」ということは、いま学会の常識になっております。このように、亡国の号鐘であり、列島を壊滅させる巨大地震は、既にカウントダウンを始めているのであります。

 次に、異常気象は、もうこのことに気付かない人はいないですね。日本列島の今年の八月の猛暑もたいへんでしょ。今日も本当に暑いですね。
 ですから、もう今年は猛暑だ。五十周年の大事な幹部大会に、本当は全部礼服と思ったんですよ。ところが今年は猛暑だ。だからみな白にしよう。壇上の者だけは、罪障が深いから(笑)罪障消滅で汗かこう。いうことにしたわけなのでありますが、今年は熱中症で57人が死んでいる。こんなことありましたか。ですから、「もう異常気象だ」、誰に言われなくてもわかるんですね。
 国連の気候変動に関する政府間パネル、所謂IPCCこれは、こう言っている。「地球温暖化によって、集中豪雨、大型台風、大熱波(いまこれそうですね)、大飢饉、大流行病等が続発する
 こういうことを予測して、4回にわたって、発表しております。その予測を遥かに上回るスピードで、現在温暖化が進みつつあるんです。そして、この温暖化は、気象異変で直接災害を起こすというようなことよりも、もっと次元の違う恐ろしい事態を引き起こすことが、いま実はわかってまいりました。それは、大気中の二酸化炭素、所謂CO2ですね。この濃度が急増して、人類が窒息死する、絶滅するということなのであります。
 即ち、温暖化によって、海水の温度が上昇すると、海の水は大気中のCO2を吸収しなくなるだけではなく、逆に放出するようになる。いまこのことが始まり出しているんです。この放出されたCO2は、さらに温暖化を促進する。悪循環が始まってくるのだと。
 そして、その悪循環の果てはどういうことになるかというと、このことについて、元東北大学総長であり、科学者の、あの半導体を発明した西澤潤一という人、それと地球システム科学の権威である上墅勛黄(いさお)、この両博士は、共同で一冊の本を著しましたが、この共著の中で、こう断言している。
 「温暖化が引き金となって、極地(南極・北極)や海溝に眠っているメタンハイドレードが連続大量に崩壊して、悪魔のサイクルが始まれば、人類の窒息死は一気に前倒しで実現する
 さっき申しましたが、海水の温度が上がってきて、大気中のCO2を吸収しなくなって、逆に放出する。それで悪循環が始まる。どんどんどんどん温暖化が進むと、ついには、その悪循環ではなくて、地球の中に眠っているメタンガスの、氷のシャーベットみたいな、それが一斉に飛び出してきたら、海からサイダーの栓を抜いたように、一斉にCO2が大気中に放出される。その悪魔のサイクルが始まったら、誰も、人間の力では止められなくなっちゃう。このときに、大気中の濃度が3%に達したら、人類は絶滅するというんです。
 しかし、「3%の水準に達する以前に、既にCO2中毒で、全人類の頭脳がおかしくなって、呼吸困難に苦しみながら死に絶えてしまう」ということを、この2人の博士は、断言しております。まさに人類の絶滅ですね。
 大聖人様は兵衛志殿御返事に、「末法には、諸天の怒りにより、地球終末のときの壊劫にも似た(地球が破壊されるときは必ず壊劫という)、その壊劫のときにも似た大災害が起こる」ということをお示し下されておりますが、まさにそれがいま起こらんとしているのであります。

 さらに、他国侵逼については、大聖人様は先程の撰時抄に、「前代未聞の大闘諍一閻浮提に起るべし」と仰せになっておられる。
 いまの世界には、正義なんということは一つもないんですね。安倍さんのグループが、価値観外交なんて言っておりますが、正義なんてことはない。そういうこと言っている者は甘っちょろい政治家ですね。あるのはただ国益だけを求めて争う修羅・闘諍の世界だけであって、いま米中を中心に、石油とレアメタルの争奪が起きておりますが、やがて異常気象が激しさを増せば、各国が、生き残りをかけて、食糧と水を奪い合うようになる。ここに戦争が起きる。
 しかも、これから起きて来る戦争は通常の兵器ではない。人類は既に、核兵器を持つに至る。そして、この核兵器を使っての戦争が起これば、これまさに「前代未聞の大闘諍」ではないか。
 いま世界中に、どれほどの核弾頭が蓄積されているか知っていますか。2万6千発ですよ。これがもし使用されたら、人類は生きていかれなくなってしまう。地球が壊れてしまうかもしれない。まさに人類のこれも絶滅であります。
 そして、核保有国の中でも、異様な軍事力拡大を続けているのが、日本の隣国の中国ですね。この姿は、大聖人ご在世の、大蒙古国のような姿を彷彿とさせます。中国の奥地には、チベット自治区というのがある。いまの胡錦濤国家主席が、中国軍の責任者となって、奪い取った領地でありますが、そのチベット自治区、標高3千メートルの天空のような地域に、中国はいま核の基地を全部集めている。核の要塞を築いた。核ミサイルの集中基地を造りました。ここには、アメリカの主要都市を射程に収めた核ミサイルが配備されている。この天空、空のような核の要塞から、中国は、アメリカ、そして日本を始め、全世界を睨んでいるのであります。
 また中国は今年の一月十一日、人工衛星を破壊する実験に成功した。これは、アメリカの軍事システムを無力化する能力を持つに至ったということ。さらに中国の海軍力は、原子力潜水艦で、米国の本土に近付き核攻撃で、ニューヨーク・ワシントンなどを壊滅するほどの力を持つに至った。
 これに対し、アメリカの国力はここのところ衰退の徴を見せてきましたね。これはもうどうしょうもない。太陽が西に沈むように、アメリカの力は衰えてまいりました。ここに、世界の力関係に大きな地殻変動が起きて来た。今まで世界を支配し続けてきたアメリカの一極支配が、もう終るという時代になったのだ。
 私はここにも諸天の大きな力を感ずる。もうアメリカは日本を守る為に、中国と核の全面対決などはしない。いや、もう出来なくなってしまったのです。戦後六十二年、日本はアメリカの保護国のような立場に甘んじて来た。そして、国土の防衛という国家にとって命とも言うべき最も大事なことまで、アメリカに全面依存をして来た。その日本が、もし、アメリカの保護を失ったら、一体どういうことになるのか。軍事独裁国家中国は、アジアの覇者となって、中華大帝国を築かんとしている。この中国に、諸天が、日本侵略の意志を抱かしめるのであります。ここに、恐るべき他国侵逼の大難が起こるのであります。

 以上、述べた広布前夜の巨大地震と地球異変と他国侵逼は、いずれも諸天の怒りによる大罰であれば、いかなる方策を以てしても、これを逃れることは出来ません。
 では、この大罰は、いつ頃顕れるのか。亡国の号鐘たる巨大地震は、先に述べた如く、既にカウントダウンを始めております。また、地球異変による人類絶滅は、大気中の二酸化炭素濃度が3%の水準に達する日であるが、この時期について、西澤、上の両氏は、こう言っております。「二十一世紀末を基準にして、その前後数十年」と記している。そして、このことがさらに、大きく前倒しになる可能性が高いんですね。二十一世紀末から前後数十年というと、二十一世紀前半にもその範囲が入ってくるわけなんですね。さらにそれが前倒しになってきたらどうなるか。
 さらに、他国侵逼は前々から私は言っておりますが、あと十有余年であることは間違いない。このゆえに私は、「広宣流布は第二の五十年の前半にも」と、熱願しているのであります。もし、他国侵逼が起これば、そのとき日本は亡びる。また、地球異変による悪魔のサイクルが始まれば、そのとき人類は絶滅する。もう後がない時代になったのであります。
 だが、この人類の悲惨を、日本の悲惨を、「我日本の柱とならむ、等とちかいし願やぶるべからず」と仰せ給うた大聖人様が、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」とご断言された御本仏が、どうして傍観あそばすでありましょうか。
 ここに、大聖人様は、国まさに亡びんとするとき、忠誠の仏弟子の大集団を召し出だして、一国を諫暁せしめられる。このとき、三百万顕正会員は、総立ちにならなければならない。そして、大罰に恐れおののく全日本人に、「早く日蓮大聖人に帰依して南無妙法蓮華経と唱えよ」「速やかに国立戒壇を建立せよ」「これより他に日本が救われる道は断じてない」
 こう、身命も惜しまぬ大諫暁を起こさなくてはいけません。この唯願説之の赤誠、ついに日蓮大聖人の御心に達するのとき、「日本国一時に信ずることあるべし」との御金言が、必ず事実と成る。この広布の最終段階のご奉公をするのは、御遺命を守り奉った顕正会以外には、あるべきもない。
 この最後のご奉公、本日、私は、全員で、大聖人様に、この出陣式において、誓い奉りたい。さあ、全員一つ立ち上がって欲しい。
 本日の出陣式において、私は、謹んで大聖人に対し奉り、広宣流布の最後の大事のご奉公を、命賭けて貫かせて頂くことを、固くここに誓い奉る。本日結集した三万の同志諸君、その決意はどうか。ハイ! (大拍手)

 この誓いの為に、本日の幹部大会を開いたわけであります。大聖人様に対し奉るこの固き誓いによって、広宣流布は必ず実現するのであります。どうぞ席について下さい。
 凡夫には、この濁悪の日本において、「広宣流布が一時に成る」などということは、信じられないかもしれない。だが、この大化導は、大聖人様があそばすのである。大聖人様が、諸天をして謗法の国を罰せしめ、顕正会をして諫暁せしめ、ついに日本をお救い下さるのであります。
 正本堂の不思議を見なさい。誰人がこれを予想し得たか。これを以て、御遺命成就の不思議をも、強く強く確信すべきであります。熱原の方々は、身命を捨てて戒壇の大御本尊の願主となり給うた。顕正会は戒壇の大御本尊様が、いよいよ国立戒壇にお出ましになるとき、命賭けてのご奉公を以て、その道を開かせて頂くのであります。
 そして、いよいよ天生原の国立戒壇に、大御本尊のお出ましになるとき、全顕正会員は、四キロの道のりを、全員で御供させて頂こう。

 正本堂落慶式のときは、あの悪人たちは、みなしらけた笑いを見せていた。これ、偽りの戒壇と知るゆえであります。
 だが、大聖人様が三大秘法抄に仰せ下された通りの本門戒壇が、ついに眼前となったとき、ついに事実となったとき、これを仰ぎ見て、誰人が平然たり得ましょうか。
 全員、大地にひれ伏し、掌を合わせるに違いない。このとき全顕正会員は、大地が濡れるまで、紅の涙を、命の底から流させて頂こうではありませんか。以上

   平成十九年八月二六日