年頭の辞
広布の最終段階 正々堂々の前進
冨士大石寺顕正会 会長 淺井昭衞
昨冬、新「折伏理論書」が刊行され、全顕正会に歓喜と興奮が渦まいた。新たに書き加えられた第九章・十章には、日蓮大聖人の御遺命が明示されるとともに、二十八年にわたった御遺命守護の戦いの始終が括り記された。
すなわち広布の前夜、第六天の魔王は御本仏の国立戒壇建立の御遺命を破壊せんと、池田大作の身に入って正本堂のたばかりをなした。池田は「形は人なれども力は第六天の力なり」の御金言そのままに、第六十六、七の二代にわたる貫首を打ちぬき、八百万信徒をたぶらかし、その誑惑はあと一歩で完結するかに見えた。
だが、大聖人はこの大それた誑惑を許し給わず、顕正会をして立たしめ諌暁せしめ、諸天をして癒着の学会・宗門を同士討ちせしめ、ついに正本堂より還御あそばし、さらにこの魔の殿堂を完全に打ち砕き給うた。
凡慮を絶するこの不思議、この絶大威力。全顕正会員はただ紅の涙の中にこれを伏し拝するのみであった。
そして、この不思議の還御こそ「広宣流布は甚だ近し、よって身命を捨てて法を弘むべし」の仏意・仏勅であられた。
まさに広宣流布は最終段階に突入したのである。仏勅を聞き奉った顕正会の死身弘法は一段と加速し、昨年十一月、弘通は六十八万に達した。その中に、御遺命を守り奉った顕正会は、自然と「宗門の中の顕正会」から「日本国の中の顕正会」という立場になった。
六十八万の仏弟子の大集団はすでに無視できぬ存在として、一国が注目し始めたのである。月刊誌も、週刊誌も、一流新聞も、相次いで顕正会を論評するようになった。
だが、日蓮大聖人に一筋の忠誠を貫ぬく顕正会の純粋さ、清らかさは、三毒で濁った輩の理解を超える。ゆえにその論評のことごとくは、偏見と悪意に満ちている。
もし偏見と怨嫉を去って見れば、わからぬはずがない。顕正会の過去の足跡は「折伏理論書」第九章・十章に明らかであるし、顕正会が日本国民に訴えていることは「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」に明白ではないか。理解できぬのはただ偏見のゆえである。
濁悪の日本国の中に、日蓮大聖人の御遺命を奉じて立つ仏弟子の大集団が在る意義がいかに重大か。――日本の人々は、信じようと信じまいと、顕正会の叫びにふれ、初めて御本仏の厳然の御威徳と、御遺命たる国立戒壇を命に刻みつける。そしてここに一国に微(しるし)が現われるのである。
もし一国こぞって日蓮大聖人を蔑り、国立戒壇を憎み、顕正会を軽賎するならば、そのとき「梵天・帝釈等の御計として、日本国一時に信ずる事あるべし」の仏語は事実となる。
とまれ顕正会の使命は重い。一人ひとりが「日本国の中の顕正会」の自覚を胸に、毅然と立とう。七十七万が成れば百万法城はすでに眼前、そして、百万が成れば一千万は必ず成る。
大聖人は顕正会の前進をお待ちあそばす。
さあ、日本を救う大行進を、一段と加速させようではないか。
平成十二年元旦