顕正会の崩壊は近い


浅井会長の実現不可能な「誇大妄想」を直視しよう!
 

 

      年頭の辞


             日本の夜明け

                            冨士大石寺顕正会 会長 淺井昭衞

 百万法城は、ついに本年の十一月、濁悪を極める日本国の中に厳然として屹立する。
 顕正会が三百数十名の同志を以て広布の前進を開始したのは昭和三十二年八月三日。始めはせせらぎのごとき小さな流れであったが、徐々に水嵩を増し、今や一国をも揺さぶる大河となった。
 大聖人は「身命を捨てて法を弘むべし」(松野抄)と告勅し給い、日興上人は「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事」と遺誡し給う。
 この仏勅を仰いで「早く弘めなければ大聖人様に申しわけない」との一忿で、たゆむことなく前進を重ねて来たのが、顕正会の死身弘法であった。

 その弘通が一万に及ばんとしたとき、御遺命を破壊せんとする黒雲が宗門を覆った。この大悪を見て黙止すれば大不忠になる。これを恐れるあまり、身の破れるをも顧みず宗門諌暁に立ち、覚悟のごとく解散処分を蒙った。
 だが、この嵐の中にも、折伏弘通は一時として止むことがなかった。そして二十万に達したとき「本門寺改称」の陰謀を打ち擢(くだ)き、五十万のとき最初の一国諌暁に立ち、その九ヶ月後には「不思議の還御」を紅涙の中に拝し奉り、本年ついに発足以来の重大の節・百万をまさに成し遂げんとしているのである。
 しかも時は、日本の亡国に当っている。平成九年には御在世以来の最大といわれた彗星が出現し、時を感じて最初の一国諌暁に立ったのであるが、遠からず日本は巨大地震の連発に見舞われる。日本の人々は知らずとも、この天変地夭こそ、恐るべき他国侵逼の前相に他ならない。

 七百年前の日本国は、あろうことか主・師・親の三徳、大慈大悲の日蓮大聖人に対し奉り、二度も流罪し、ついには御頸刎ね奉るという、血の凍るような大逆罪を犯した。この大禍により、大蒙古の責めがあったのである。
 だが日本の人々は、未だに大聖人に背き続け、しかも七百年前の大逆罪を全く忘れ去っている。たとえ凡夫は忘れても、日本国の犯したこの大禍は消えず、諸天またこれを凝視している。凡夫にとって、七百年前は今日とは無関係の遠き昔のごとくに思えるが、諸天にとっては昨日の出来事なのである。
 されば大聖人は、諸天が二千二百余年前に、法華経の会座で釈尊に誓った「世尊の勅(みことのり)の如く当に具に奉行すべし」の誓状を重しとされ、その誓いを果たすことを申し付け給うておられる。かかる諸天、もし御本仏に背き続けるいまの日本を見るならば、如何ように思うであろうか――。必ずやこの国土を捨て去るに違いない。
 このゆえに、いま日本国に、人心の荒廃、政治の炉心溶解、国家の破産等々の亡国の予兆が現われ、さらに大地動乱ののち他国より逼められんとしているのである。

 すべては、日蓮大聖人に背き奉るところに起因している。
 このとき、百万の地涌の大集団が、濁悪の日本に出現せんとしている。この大集団は、一念も御本仏を忘れ奉らず、一切世間の名利を求めず、ただ日蓮大聖人の大恩徳を一国に顕わすことを以て命としている。
 この仏弟子の大集団の雄叫びが一国にこだまするとき、日本の人々は順逆を問わず、御本仏の重き御存在を始めて知る。この大運動だけが、日本を根本から変革し、国家を救済するのである。
 されば百万達成こそ"日本の夜明け"である。油断なく法城の石垣を積み上げようではないか。

   平成十五年 元旦