顕正会の崩壊は近い


浅井会長の実現不可能な「誇大妄想」を直視しよう!
 

 

      年頭の辞


             国難三年

                            冨士大石寺顕正会 会長 淺井昭衞

 「仏法やうやく顛倒しければ、世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影ななめなり」 (富木殿御返事)と。
 この御金言のごとく、大事の仏法が濁乱すれば、国家は必ず傾きついには亡国にいたる。

 国難元年の一昨年 ---
 創価学会は、御本仏・日蓮大聖人の出世の御本懐、全人類即身成仏の唯一の法体、広布の暁の国立戒壇に安置し奉るべき「本門戒壇の大御本尊」を、あろうことか「受持の対象にはしない」との謗言を以て捨て去った。

 また国難二年の昨年は、この極限の大謗法のさらなる徹底を謀り、「勤行要典」を改悪して観念文から「本門戒壇の大御本尊」を完全に抹殺した。
 さらにこの「勤行要典」と新「会則」において、「創価学会は「三代会長」を永遠の師匠と仰ぐ」旨をも定めた。
 ここに「三代会長」と記しているが、初代・二代の牧口・戸田両会長は、戒壇の大御本尊を絶対と信じ奉っていた。だが第三代の池田大作は、あろうことか、この大御本尊を全学会員に捨てさせた。この肝心・要かつ重大なる矛盾を、隠しているのはどういうわけか。

 見よ。戸田二代会長は観心本尊抄講義録の序文にこう述べている。
 「宗祖日蓮大聖人は文永十年四月二十五日佐渡に於て当抄(観心本尊抄)を述作遊ばされ、弘安二年十月十二日に至って本門戒壇の大御本尊を御建立遊ばされた。これによって終窮究竟の出世の御本懐を達成せられるとともに、文底下種事行の一念三千の大御本尊が始めて世に建立せられ、一切衆生即身成仏の大直道が茲に瞭然と開かれたのである」と。
 戸田前会長が本門戒壇の大御本尊を尊崇すること、かくのごとくであった。
 しかるにいま池田大作ならびにその一党は「弘安二年の御本尊は受持の対象にはしない」(会長・原田稔、聖教新聞・平成29年1月8日付) と悪言を放ち、また「大聖人が顕わされた御本尊と、それを書写した本尊は、すべて等しく『本門の本尊』である」さらに「弘安二年の御本尊を、唯一絶対の御本尊と大聖人が定められた証拠はない」などと謗言を吐いて、「広宣流布大誓堂」なる建物に懸けた第六十四世日昇上人書写の御本尊を、学会の根本の本尊と定めんとしている。
 日蓮大聖人に背き奉る大逆罪、また初代・二代会長への師敵対、これに過ぎるはない。

 一分の信心ある者、誰がこのような謗言を吐けようか。第六天の魔王その身に入った者にして、始めて口にし得る一言である。その畏れ多さ、未来堕獄の恐ろ しさ、まさに「有るべからざる」の言辞である。
 ゆえに私は、学会の極限の大謗法に言及するとき、いつも思わず「あろうことか」との言葉が出てくる。

 第六天の魔王は、信心うすく名利を求め大慢心の者の身に入る。池田大作は学会員を選挙に奔走せしめ、 やがて日本の最高権力者たることを夢みていた。
 昭和四十年当時、得意の絶頂にあった彼は、居並ぶ 大幹部を前にして、次のように述べていた。「私は日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想・文化・一切の指導者、最高権力者である」(「人間革命をめざす池田大作 その思想と生き方」 高瀬広居著)と。
  第六天の魔王はこの大慢心の者の身に入り、まず御本仏の御遺命たる国立戒壇を正系門家から抜き取り、そして今、ついに出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊を、八百万学会をたぶらかし捨てさせんとしているのである。

  法華経譬喩品には「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。況んや文底深秘の本門戒壇の大御本尊を誹謗する重罪においておやである。
 いま学会員は、悪師・池田大作に付くゆえに、今生には功徳を失い、臨終には悪相を現じ、後生には大苦を受けること、同じく信心を起こしながら、いかにも 痛々しく不憫である。
 私は何よりも八百万学会員を救いたい。早く全員をめざめさせ、共に広宣流布・国立戒壇建立に戦い、共に成仏への道を歩みたいと念願している。

  ここに国難三年を迎える。
 「仏法は体、世間は影」であれば、今後、広宣流布の決戦場たる二〇年代に向って、月を追い、歳を逐うごとに、天変地夭・他国来難の色はいよいよ濃くなる。これ諸天の誡めである。
  その中に、日蓮大聖人の絶大威徳により、「日本国一時に信ずる事あるべし」は事実となるのである。
  さあ国難三年も、柔和質直・不惜身命で広宣流布を進め、何としても大聖人様に応え奉ろうではないか。

    平成二十八年 元旦