自画自賛は、劣等感の裏返し
4月度総幹部会で浅井会長は、安倍首相の経済政策・アベノミクスを批判して、こう述べた。
「これは願望にもとずく幻想に過ぎない。何の裏づけもないのです」
まず言葉使いだが、「もとづく」は現代仮名遣いで「ず」ではなく、「づ」を使うと定められている。
もう一つ指摘しておけば、「昨年の三・一一以降、日本列島の地殻は極めて不安定になっている。この四月も…」、これは「昨年」でなく「一昨年」の誤り。
「国立戒壇を推進する唯一の言論機関」(横田副理事長)と「自賛」する機関紙にしては、その編集部のレベルの低さが見て取れる。
一事が万事、顕正会は「自賛」に満ちている。
「初めから終わりまで感動の連続」
「二・三・四月法戦としては空前、過去最高」
「突然、スーパーアリーナから連絡があって、… まことに 有難い御守護」
「悪の日本国に、大聖人様に南無し奉る唯一の地涌の集団」
ブラック企業の宣伝文句か、催眠商法の謳い文句かと、見まごうばかりの自賛ぶりである。
「自画自賛」の類語を調べてみると、このような言葉が出てくる。「自慢」「手前みそ」「自己満足」「独りよがり」「お手盛り」「我田引水」「売名行為」。
すべて、顕正会によく当てはまる。
「能ある鷹は爪を隠す」(能力のある人は、それをひけらかしたりしない)
「空樽(あきだる)は音が高い」(空っぽの樽を叩けば、大きな音が出る)
つまり「自画自賛」は、劣等感の裏返しである。顕正会においては、自信の無さ(無能・稚拙・幼稚)の裏返しとして、独りよがり・自己満足・手前みそが鮮明に出ている。
さて「願望にもとづく幻想」であるが、浅井会長の六千万会員・二〇二〇年代達成目標こそ、まさに「
幻想」であると小生は指摘し続けて来た。
他者に斬りつけた刃(安倍首相批判)が、却って自身を傷つけてしまっていることに、ダブル・スタンダードの浅井会長は気づかない。
社会学の知見を、参考にしてみよう。「ダブル・スタンダードの存在する社会領域では、人びとは個人としての自律的な判断と行動が困難になりがちである。ダブル・スタンダードが、自己欺瞞を欺瞞として放置し、思考停止させる文化装置としての『心の習慣』であるのは、それが反省抑圧的なコミュニケーションだからである」(「ダブル・スタンダードの理論のために」、野村一夫)
たしかに、顕正会には自己反省が希薄で、思考停止、自己欺瞞、自律的な判断と行動が困難、という傾向が顕著である。
(櫻川 記 2013,05/15)