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「学会・宗門」抗争の根本原因
本宗の血脈について
ここで、正信会が問題にした阿部管長の相承疑義について触れておく。
およそ本宗の血脈相承とは、付嘱の法体は戒壇の大御本尊にてまします。そしてこの法体の付嘱について、唯授一人・金口の相承がある。
日寛上人はこの付嘱相承について「祖師(日蓮大聖人)より興師(日興上人)へ御付嘱また是れ三大秘法なり。興師より目師(日目上人)へ御付嘱もまた是れなり。… 目師より代々今にいたるまで廿四代、金口の相承と申して、一器の水を一器にうつすがごとく三大秘法を付嘱なされて大石寺にのみ止まれり」(寿量品談義)と仰せられている。
古来よりの記録によれば、歴代御法主の相承の儀は、おおむね大石寺の客殿において、丑寅の刻に行われる。内陣に屏風をめぐらせ、外陣を役僧に警護せしめ、静寂の中に数時間にわたって行われる血脈相承の儀は、思うだに厳粛畏敬の念に打たれる。
かくて、御本仏日蓮大聖人より日興上人への御付嘱すなわち「血脈の次第日蓮・日興」(一期弘法付嘱書)を本源として、日興上人より日目上人、日目上人より日道上人と、一器の水を一器にうつすがごとく、金口の相承を以て法体たる戒壇の大御本尊が付嘱相承されてきたのである。
この血脈相承こそ本宗の命脈であり、この付嘱を受けられた上人は即「下種の僧宝」であられる。すなわち僧宝とは、別しては日興上人、総じては嫡々代々の御法主である。
では、もしこの付嘱相承の儀が省略されるようなことがあったらどうなるのか。そのような非常事態が万一あったとしても、血脈が断絶するようなことは断じてあり得ない。
御本仏の下種仏法は金剛不壊である。法体たる戒壇の大御本尊は厳然とましまし、金口の相承(御大事)また厳然である。
万一相承の儀式が省略されたとしても、大聖人の御意に叶う法器だにあれば、法水また不断である。
金口の相承とは、いわゆる口伝(くちづた)えのごときものではない。みだりの言挙げは畏れ多いのでこれ以上の言葉は慎むが
--- 考えてもみよ、御本仏が下種仏法を万年の外尽未来際まで久住せしむるのに、どうして途中で断絶するような方法をお用いあそばすであろうか。甚深の御仏智に、深く信を取らねばならぬ。いかなる事態があろうとも、本宗の血脈は絶対に断絶するものではないのである。
では、正信会のいう阿部管長への疑義は如何といえば、このような疑義を受けること自体が、御遺命に背いた罰といわねばならぬ。御遺命に背けば、たちまちに法主の徳・僧宝の徳は失せる。かるがゆえに、法主として最も重大なる相承授受において、六十六代細井管長に「授」なく、六十七代阿部管長に「受」なしと、大衆より疑われる事態を招いたのである。
ただし重ねていう。六十六・七代のいかんに関わらず、御本仏の三大秘法は金剛不壊であり、金口の相承・血脈はまた不断である。ちなみに、現在正信会に籍を置いているか否かは知らぬが、久保川法章の戒壇の大御本尊と血脈についての所論のごときは、未だ初学の慢心者が、学会憎しのあまりに血迷って吐いた大謗法の邪説に過ぎない。
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