冨士大石寺顕正会の基礎知識


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     事の戒壇建立の時期・手続・場所について

 さて、事の戒壇とは、いつ、どのような手続で、どこに立てられるべきものか。このことを明確に御教示下されたのが三大秘法抄である。

 すなわち「
戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つ可きのみ。事の戒法と申すは是れなり 」と。

 文々句々の解釈はここには省略するが、いま文意をとってこの御文に示された時期と手続と場所を説明すれば、まず時期は、広宣流布達成の時である。すなわち、上は天皇陛下より下全国民に至るまで三大秘法を信じ、戒壇の大御本尊を守護するにおいては身命も惜しまぬという大護法心が日本国上下にみなぎった時、これが戒壇建立の時である。

 次に手続については「
勅宣並びに御教書を申し下して 」と御遺命されている。「勅宣」とは天皇の詔勅、また「御教書」とは当時幕府の令書である。この「御教書」は、今日でいえば国権の最高議決機関たる国会の議決、またこの議決に基ずく内閣の決定がそれに当ろう。すなわち「勅宣並びに御教書」とは、まさしく国家意志の表明ということである。

 なぜに戒壇建立の手続に国家意志の表明が必要なのかといえば、一個人・一団体の護持ではなく、日本国家としての正法護持でなければ、仏国は実現しないからである。正法の流布が個人から民衆へと広まり、一国の総意がついに国家意志にまで凝集されて戒壇建立に至った時、始めて日本国は仏国と化するのである。
 このゆえに国家意志の表明たる「
勅宣並びに御教書を申し下して」という手続は、必要欠くべからざるものなのである。御遺命の事の戒壇は、この手続のゆえに、富士大石寺において従来「 国立戒壇 」と端的に呼称されてきたのである。

 次に場所については、三大秘法抄には「
霊山浄土に似たらん最勝の地 」と仰せられているが、日興上人への一期弘法付嘱書には「 富士山に 」と地名が特定されている。さらに広漠たる富士山麓の中にはいずれの地かといえば、南麓の絶景の地「 天生原 」と日興上人は定められている。すなわち大坊棟札に「 国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり 」と。
 「当国」とは駿河の国(静岡県)、「天母原」は天生原に同じ、また「三堂」とは本門戒壇堂と御影堂と垂迹堂のことである。
 また日寛上人は「
事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり 」(報恩抄文段)と。

 以上、事の戒壇建立の時期と手続と場所について説明したが、最後に、七百年来の伝承に基づくといわれる御宝蔵説法本を拝見してみよう。この説法本は、戒壇の大御本尊内拝に際して、歴代御法主が御宝蔵において読み上げられたものである。ここには明治から大正にかけて猊座に在った五十六代日応上人の御説法本を拝見する。

 「
後五百歳中広宣流布の金言虚しからずんば、上一人より下萬民に至るまで此の大法を持ち奉る時節あり。此れを事の広宣流布と云う。其の時、天皇陛下より勅宣を賜わり、富士山の麓に天母ヶ原と申す曠々たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立あって―― 」と。
 この説法の中に、戒壇建立の時期・手続・場所は赫々明々ではないか。これが御本仏の御遺命を、そのまま清らかに伝えた
本宗伝統の法義である。

 まさしく御遺命の事の戒壇とは、広宣流布の暁に、国家意志の表明を以て、富士山天生原に建立される国立戒壇である。
 この国立戒壇の建立こそ、仏国を実現すべき「 立正 」の具体的内容であり、富士大石寺七百年の悲願なのである。


         (  日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第七章より  )



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