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勤行の内容
以上のごとく、勤行の内容は、方便品・寿量品の読誦と、題目を唱えることと、三宝への御報恩がその骨子となっている。このことについてその意義を簡単に説明する。
まず方便・寿量の両品読誦と唱題との関係であるが、両品読誦は助行、唱題は正行である。これを食事に譬えれば、唱題は主食、両品読誦はその主食の味を助ける調味料に当る。日寛上人は「塩・酢の米・麺の味を助くるが如し」(当流行事抄)と仰せられている。
すなわち方便・寿量の両品を日蓮大聖人の仏法の立場より見れば、両品はともに三大秘法の甚深の功徳を説明している経文となる。ゆえに勤行においては、釈尊の法華経としてではなく、大御本尊の功徳を讃嘆している経文として、両品を読誦するのである。ゆえにこれを助行という。
そしてこの助行の中にも傍と正がある。方便品を傍、寿量品を正とする。これは、三大秘法の甚深の功徳を助け顕わすにおいて、方便品は遠く、寿量品は近くこれを顕わしているゆえである。
次に正行たる唱題こそ勤行の肝要である。御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱える修行により、我等凡夫がそのまま即身成仏させて頂ける。
このことを大聖人は本因妙抄に「信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば、凡身即仏身なり」と仰せられ、また日寛上人は当流行事抄に「夫れ唱題の立行は余事を雑えず、これ乃ち久遠実成の名字の妙法を余行に渡さず直達正観する事行の一念三千の南無妙法蓮華経是れなり」と指南されている。
かかる有難い唱題の修行であれば、歓喜でぞくぞくするような心を以て、少なくとも五分以上は唱え奉るようにしたい。
次に御観念文における三宝の御報恩であるが、三宝とは仏・法・僧である。
末法下種の仏宝とは、御本仏・日蓮大聖人であられる。流罪・死罪の大難を忍び給うて我等一切衆生に三大秘法を授与して下さった大慈大悲の御報恩は、たとえ香城に骨を摧くとも報ずることはできない。
末法下種の法宝とは、本門戒壇の大御本尊であられる。「我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(観心本尊抄)とのごとく、信じ唱える我等に自然と成仏の大功徳を与えて下さる大御本尊の大恩は、たとえ雪嶺に身を投げるとも報ずることはできない。
末法下種の僧宝とは、第二祖・日興上人であられる。仏恩・法恩がいかに甚深であっても、もしこれを伝えて下さる方がおられなかったら、どうして末代の我等、三大秘法を受持することが出来たであろうか。まさに日興上人こそ末法万年に三大秘法を清く正しくお伝え下さった下種の僧宝であられる。さらに総じては、日目上人以下嫡々付法の歴代正師も僧宝である。
かくのごとく三宝の御恩徳を念じて、御報恩し奉るのである。
以上の勤行を朝晩怠けずに行うことにより、過去世からの謗法等の罪業で覆われた汚れた生命が、仏界を湧現する清らかな生命へと磨かれていくのである。
ゆえに大聖人は 「深く信心を発(おこ)して日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云うなり」(一生成仏抄)と仰せられている。
私達凡夫は、生活の苦しい時には苦しさに流されて勤行を忘れ、また楽になればなったで勤行にゆるみを生ずることがあるが、大聖人は次のごとく御指南下されている。
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうち唱へ居させ給へ、これあに自受法楽にあらずや」(四条金吾殿御返事)
また 「世の中憂からん時も、今生の苦さへ悲しし、況や来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も、今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれと思し食し合せて又南無妙法蓮華経と唱ヘ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ」(松野殿御返事)と。
この御指南のごとく、苦しい時も、楽しい時も、苦楽を乗り越えて勤行に励むところに一生成仏がある。
顕正会員は、折にふれ機にふれ本部会館に詣でて大御本尊を拝しつつ、さらに日夜朝暮に遥拝勤行に励み、以て現当二世の大利益を頂こうではないか。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第五章より
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