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奉 告 文
顕正会会長 浅井
昭衞
恐々として謹しみ敬うて
御本仏日蓮大聖人の尊前において、本日ここに、御遺命守護の完結を、報告し奉るものであります。
大聖人様−−。
本門戒壇の大御本尊が、恐れ多くも誑惑・不浄の正本堂に居えられ奉ってより今日まで、実に二十六年の長き歳月が流れました。
しかるところ、鳴呼ついに、本年四月五日の午後四時、大御本尊は、清浄にして堅固なる新奉安殿に、還御あそばされました。
いま大歓喜は胸の奥よりこみ上げ、表わすべき言葉を知りません。
二十六年前の、あの宗門・学会一体になっての正本堂の誑惑の深さ凄じさ、またこれを為した悪の力の強大さを思えば、誰が今日の御帰還を想像し得たでありましょうか。
ここにおいて我等、ただただ御本仏の絶大威力と、誰人も犯し得ぬ御威徳を、滂沱たる涙の中に、伏して拝し奉るのみでございます。
いま、この二十六年間を顧みますれば−−
そも正本堂とは、池田大作が政治野心より、御遣命の国立戒壇を否定せんとして、偽り建てたるものであります。
彼は、俄かに建てたこの欺瞞の正本堂を指して、三大秘法抄・一期弘法付属書に御遺命された戒壇と嘯き、その発願式にはこの誑惑を自ら称揚して
「 夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又、仏教三千余年史上空前の偉業なり、乃至、正本堂の完成を以て三大秘法ここに成就す 」
とまでの断言をいたしました。まことにこれ、第六天の魔王池田大作の身に入って、御本仏の御遺命を破壊するの姿そのものでございました。
しかしながらこの大それた誑言、もし池田一人のそれならば誰人も信ぜぬところに、あろうことか、時の貫首・細井日達管長この池田大作に諂い、誰人も背き得ぬ「
法主 」の権威を以てこの誑惑を助けたのでありました。
かくて天を地といい、東を西といい、白を黒という如きたばかりは罷り通り、ここに宗門僧俗ことごとく正本堂を讃嘆し、国立戒壇の御遣命は正系門家より全く消え失せたのでございました。
この御遺命破壊の大悪事を眼前にして、小生等、もし黙止すれば御本仏大聖人への不忠これに過ぎたるはなしと恐れ、賤身をも顧みず、昭和四十五年三月、諌暁の御奉公に立たせて頂きました。
以来連々たる諌暁により、学会は二度にわたり誑惑を改めることを文書で誓い、細井管長また顕正会の主張を富士大石寺伝統の正義なりと認められました。
しかるに池田大作は顕正会を欺き、正本堂完成の直前に至って、細井目達管長を再び籠絡し、御遺命に背く訓諭を発布せしめたのであります。
その訓諭に云く
「 日達、この時に当って正本世の意義につき、宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。
正本堂は、一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒増なり。即ち正本堂は、広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるベき大殿堂なり 」と。
これすなわち、正本堂を御遺命の戒壇に当る建物と前以て定め、近き将来、大石寺を本門寺と改称して誑惑を完結せんとの策謀を秘めた、大悪きわまる訓諭でありました。
そして、この訓諭のまゝに、本門戒壇の大御本尊は恐れ多くも、誑惑そしてキリスト教神父を招いて穢した不浄の正本堂に、居えられ奉ったのであります。時に昭和四十七年十月七日。
伏して慮るに、戒壇の大御本尊様は、広宣流布の暁の国立戒壇に安置し奉るべしとて留め給いし御本仏の御法魂にてまします。しかるにいま、この大御本尊様は、あろうことか国立戒壇を否定するために偽り建てた堂宇に居えられ奉ったのであります。御本仏に対し奉る冒涜・不敬これに過ぎたるはありません。
ここに顕正会の諌暁は一段とその激しさを増しました。
これを見て池田大作は、宗内外に正本堂の誑惑が露見するを恐れ、顕正会を抹殺せんと細井管長をして解散処分をなさしめました。それより五年、細井管長は大罰を身に感じ、池田大作との不和に苦悩するなか、臨終思うようにならずして急逝いたしました。
替わって登座したのが、阿部日顕管長でありました。この人は教学部長当時、池田の手先となって「 国立戒壇論の誤りについて 」並びに「 本門事の戒壇の本義 」なる二冊の悪書をものし、さらに先の訓諭の草案をも作製せし人。池田に阿諛するにおいては細井管長をも凌ぐ人でありました。
この阿部管長の登座により、学会と宗門の癒着旧に倍するを見て、顕正会は昭和五十四年十一月、阿部管長に対し強烈の諌訴状を提出いたしました。その末文に記して云く
「 阿部管長には早く改悔し、速かに正本堂より奉安殿に大御本尊様を御遷座申し上げ、以て誑惑を精算し、違背の大罪を償われんことを 」と。
重ねて昭和五十六年二月、諌訴状を提出いたしました。
しかし阿部管長にはいささかの改悔もなく、翌五十七年の正本堂建立十周年には、百六箇抄の「
富士山本門寺本堂 」の文を引いて、またも正本堂が御遺命の戒壇に当る旨を述べました。これ近き将来に大石寺を「本門寺」と改称せんとするの伏線であり、このとき阿部管長は、池田大作に賞与本尊まで与えております。そしてさらに二年後の昭和五十九年には、折りしも細井管長との不和から総講頭職を辞していた池田大作を、再び総講頭に任命したのであります。
この二人の癒着こそ、いよいよ平成二年の大石寺開創七百年を機としてなさんとしていた「
本門寺改称 」をめざす、二人三脚の態勢でありました。
もし大石寺の名称が本門寺と改められんか、そのとき正本堂は自動的に「
本門寺の本堂 」となり、誑惑はここに完結いたします。これこそ池田大作が、昭和四十七年の正本堂落成式の時、顕正会の阻止で成し得ずに憤満を懐いて以来、胸に秘めていた陰謀でありました。
大石寺開創七百年大法要を六ヶ月後に控えた平成二年四月二十七日、小生は阿部管長に対し、「
正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む 」と題する長文の一書を認めました。そのゆえは、これまで正本堂の誑惑を支えてきた理論的支柱は、阿部管長が教学部長当時、池田に命ぜられて書いた二冊の悪書でありました。この悪書において阿部管長は、三大秘法抄の文々句々を無残にも曲会し、御遺命を完全に破壊せんとしたのであります。小生はこの諌暁書において、その邪義の一々を挙げ、こゝに誑惑の根を完全に断ち切らせて頂きました。
さらにその年の七月、小生は横浜アリーナに顕正会員二万余名を結集し、席上
「もし池田大作が本門寺改称を強行せんとするならば、二十万全顕正会員はこぞって大石寺に馳せ参じ、断じてこの陰謀を粉砕する」と、必死の決意を表明いたしました。
諸天の働きか、不思議にもこれより、池田と阿部管長との問に疑心暗鬼が生じて自界叛逆が出来、大石寺開創七百年大法要の折に予定されていた「
本門寺改称 」は、にわかに腰砕けとなりました。すなわち学会は大規模に準備してきた挙式を急遽変更し、阿部管長また大法要の席上わざわぎ″本門寺の寺号公称は未来に属する″旨の発言をなし、ここに陰謀は完全に潰え去ったのであります。
それ以後の宗門と学会の醜い抗争は、まさに報恩抄に仰せの「
修羅と悪竜の合戦 」そのものであり、御本仏に背き奉るの大罰を、眼前にするの思いでありました。
かくて池田憎しの思い募る阿部管長は平成三年一月に至り“正本堂は三大秘法抄に御遺命の戒壇ではない ″と告白し始め、さらに ″この誑惑をなした一番の元は池田大作にある ″と罪をひとり池田になすりつけました。
これまことに卑劣の所行にして、真の懺悔とはとうてい思えません。ゆえに阿部管長は、池田の誑惑は暴露するものの、なお一方において正本堂の建物には執着するという、矛盾を見せておりました。
その年の虫払法会においては、次のように説法しております。
「 本宗信徒一同は、正本堂の世界に冠たる素晴らしい建物を仰ぎつつ、その然るに至った広布の相よりして、日達上人の仰せの如く、三大秘法抄の意義を含む大功徳が存すること、かつ、戒壇の大御本尊まします故に現時における本門事の戒壇であり、・・・・・常に参詣し、懺悔滅罪すべきであります 」と。
矛盾撞着とは、まさにこのことであります。
所詮、阿部管長には、池田に対する憎悪と瞋恚はあるものの、戒壇の大御本尊に対し奉る不敬冒涜を恐れる道念はなし。ゆえに大御本尊を正本堂に居え奉ったまま平然たり得るのである、と思われました。
未だ顕正会の諌暁の御奉公足らず---。こゝにおいて顕正会は平成四年十一月、三十万達成を機に、重ねて強烈の諌訴状を阿部管長に提出いたしました。その冒頭に記して云く
「 本門戒壇の大御本尊が誑惑不浄の正本堂に居えられ奉ってよりすでに二十年---。その間、顕正会の連々たる諌暁により誑惑すでに破れたるにも拘らず、阿部管長には、未だに大御本尊への不敬を解消し奉らぬこと、痛憤に耐えぬところであります。御本仏、この無道心を見ていかに悲憤あそばし給うか 」と。さらに阿部管長のこれまでの無道心の言動を一々挙げて責め、厳然の大罰必ずあることを指摘した上で
「 直ちに戒壇の大御本尊を清浄の御宝蔵に遷座し奉るべし、御遷座こそ誑惑の完全なる清算なり 」
と強く訴えました。しかしながら、阿部管長は改悔せず、動かず。
ここに平成七年一月、阪神大震災が突如として発生、日本列島は俄かに大地動乱の様相を呈してまいりました。これを見て小生は直ちに
「 大地震の切迫に鑑み、急ぎ免震構造の新御宝蔵を建設し、速かに正本堂より戒壇の大御本尊を遷座し奉るべき 」旨の建白書を提出いたしました。
文中に記して云く
「 もし戒壇の大御本尊に万一のことがあれば、ことは仏法の破滅、全人類の破滅、とうてい取り返しのつくことではありません。これ、時に当って一閻浮提第一の大事であれば、敢えて強言を構え、直諌するものであります 」
「 もしこの重大の諌めをなお蔑り無視するならば、御書に云く『
法に過ぐれば罰あたりぬるなり 』と。すでに御身の亡びること眼前なること、最後に念記するものであります 」と。
これより六ヶ月後、阿部管長は地震対策を理由として、大客殿の建て替えを発表いたしました。ただし、正本堂に関しては″充分の耐震力あるゆえ対策は加えず ″とのことでありました。
事ここに及んで、小生等にはすでに為す術もなく、ただ天を仰いでは非力を嘆き、ひたすら御本尊様に祈念するばかりでありました。
しかるに、御本仏の絶大威力は無懺の阿部管長をも動かし給い、大客殿工事と共に密かに免震工法による新奉安殿を造らしめ給うたのでありました。
而してついに、本年四月五日、本門戒壇の大御本尊様は堂々の還御をあそばされました。
まことにまことに、大聖人様が佐渡よりお帰りのとき、「
鎌倉殿はゆるさじとの給い候とも、諸天等に申して鎌倉に帰る 」と仰せられたことここに彷彿として、いま五十五万全顕正会員、今回の不思議の還御を拝しては、ただただ感泣のほかはありません。
あゝ、二十六年の長き歳月--。いまついに御本仏の御威徳により、誑惑は根底より清算され、不敬は完全に解消されたのであります。
この一事もし虚しくし一て正本堂が御遺命の戒壇と定まったならば、広宣流布の金言もまた虚し。
しかるにいま、凡夫の思議を絶する大現証を、眼前に拝見させて頂きました。もししからば「
仏語は実にして虚しからず 」の金言、「 広宣流布は大地を的とする 」の仏語の重きこと、また盤石のごとしであります。
この重き御金言に云く
「 日蓮によりて日本国の有無はあるべし 」
また云く
「 ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計として日本国一時に信ずることあるべし 」と。
いますでに、日本国一同、御本仏を軽賎し奉るゆえに、国まさに亡びんとしております。
ここに昨年、顕正会は日蓮大聖人の大恩徳を日本一同に告げ知らしめんと一国諌暁に立ち、同時に一千万の大法弘通を大聖人様に誓い奉りました。
すでに不敬は解消し、またいかなる大地震にも大御本尊様は御安泰。今や後顧の憂いは全くなし。
この上は、顕正会はただ
「 身命を捨てて法を弘むべし 」
の仏勅のまま、広官流布に身を捨てさせて頂きます。
請い願わくば、御本仏大聖人、大慈大悲の御加被を垂れ給い、顕正会をして、何とぞ一千万の大法弘通を成さしめ給わんことを−−
平成十年四月十日
冨士大石寺顕正会
会長
浅井 昭衞
恐々敬白
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