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学会「聖教新聞」紙上で正本堂の誑惑を訂正
細井管長は直ちにこのことを学会に伝えた。しかし学会からは何の返事もない。
私が最も恐れていたのは、池田がこのまま「戒壇の大御本尊」の御遷座を強行することだった。学会は妙信講との間では内密に訂正したものの、その事実を公表したことは未だない。よって学会員も世間も誑(たぶら)かされたままになつている。
そのうえ池田は多くの来賓を落慶式に招くことを、聖教新聞紙上で誇らしげに発表していた。
このような誑惑の殿堂に御本仏の御法魂を遷(うつ)し奉ることは、断じてあってはならない。すでに落慶式は一ヶ月余に迫っている。
私は池田会長にあて書状を急送した。その趣旨は
1) 直ちに誑惑の訂正を公表し、正本堂の意義を如法に正すこと
2) 来賓を招くとも、不信・藷法の輩は正本堂の中に入れぬこと
3) 訂正がなされぬうちは、断じて戒壇の大御本尊の御遷座をしないこと
--- の三ヶ条を強く求め、池田会長との早々の面談を申し入れたものである。
そして文末に「もし御遷座を強行するならば、妙信講は護法のゆえにこれを阻止、ただ一死を賭して在家の本分に殉ずるのみ」と記した。
九月六日、学会から返書が来た。彼等も事ここに及んでは、妙信講との対論を回避できぬと観念したのであろう。理事長・和泉覚の名で「猊下の御指示のとおり、整然と話し合いたいと望んでおります」といってきた。
かくて十月十二日の正本堂落成式を眼前にして、最後の法論が常泉寺において九月十三日より同二十八日までの間、七回にわたって行われた。
学会代表は秋谷栄之助副会長・原島嵩教学部長・山崎正友弁護士の三人。彼等も背水の陣であった。
法論開始に先立ち、宗門側として千種法輝宗務支院長が趣旨説明をした。支院長は極度の緊張のためか、メモを持つ手が小刻みに震えていた。「どうか、話しあいは整然と行なつて頂きたい。お互いにテープを取らぬこと。なお正本堂の落慶式は宗門の行事として総本山が行うものであり、学会は関係ない」とだけ述べるとすぐ退席した。
学会が云わせたものと思われる。
法論と関係なく落慶式を行うのでは法論の意味がなくなる。私は秋谷にいった。「この法論の結論が出るまで、絶対に大御本尊を御遷座申し上げてはならない。そのための対論ではないか」
秋谷はいった。「落慶式は宗門のおやりになることだし、また十月十二日までに結論が出なければ、どうしようもない」
彼等は明らかに時間切れに持ちこむ戦法であった。
私はいった。「では、十月十二日までに決着をつけよう」 いよいよ両者背水の陣の激しい論判が開始された。
御遺命の戒壇とはいかなるものかを判ずる唯一の基準は三大秘法砂であれば、まず三人秘法抄の文々句々の意の確認から入った。しかしこの確認も、相互の見解を述べるだけでは水掛け論に終わってしまう。勝負を決しなくてはならない。
だが彼等は時間切れを狙って、出来るだけ論議を延ばそうとしている。相手は三人、こちらは一人。一人が詰まれば他の二人が口を出す。それを一々に詰めては承伏させ、論を進めた。そのような中で、彼等は形勢不利とみれば、予定時間を理由にその日の論議を打ち切ることもしばしばあった。
途中、激論のすえ「これで決裂、では奉安殿の前で会おう」というところまで行ったこともある。しかし対論第六回の二十八日に至り、ついに決着がついた。屈伏した彼等は、聖教新聞紙上に訂正文を掲載することをついに応諾したのである。
案文は原島が作った。その主要部分は「現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって正本堂は猶(なお)未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。故に正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、御遺命は達成されてしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである。また、この正本堂には信心強盛の人のみがここに集いきたり、御開扉を願う資格がある。したがって正本堂は広宣流布のその日まで、信徒に限って内拝を許されることはいうまでもない」と。
これまで学会は正本堂を指して「三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇」といい、この建立を以て「御遺命は成就、広宣流布は達成」と云い続けてきた。今その誑惑を、自ら「誤りである」と明言したのである。
また「正本堂には信心強盛の人のみが…‥・」以下は、正本堂を奉安殿の延長と規定したものである。明確な訂正であった。
私はこの文を池田会長の名を以て公表するよう求めた。三人は沈痛な面持でうつむいてしまった。やがて原島教学部長が哀願するように「それだけは弟子として忍びない、私達は生きては帰れない、なんとか和泉理事長の名で
・・・」といった。
もとより辱(はずかし)めることが日的ではない。私は原島の心情を汲み、“武士の情”としてこれを了承した。原島は涙を浮かべ両手をつき「有難うございました」と頭を下げた。
かくて訂正文は約束どおり、十月三日の聖教新聞第一面に掲載された。誑惑は辛じて阻止されたのであった。
この八日のち、私は所感を「富士」巻頭言に「御遺命ついに曲らず」と題して次のごとく記した。
「事きわまって大聖大の御裁断は此処に下り給うた。大御本尊御遷座の九日前、九月二十八日ついに決着。ゆえに十月三日の聖教新聞の公式声明に云く『云々』と。また不信・謗法の来賓数千も大御本尊の御座所を踏み奉らず。
御遺命の正義・本宗七百年の伝統は辛じて此処に死守された。これに至る経過、まさに御本仏大聖人の御加庇(かひ)なくしてはと思えば、両眼滝のごとし。
今は静かにその誠意を見守らせて頂く。もし不実ならばすでに仏天これを許さず、自らその身を亡ぼすのみ。而して一国広宣流布は未だおわらず、御遺命の事の戒壇は未だ立たず、御遺命の正義守護せらるれば、いよいよその達成に身を捨てるべきである。妙信講はその大法戦場に向って新たな前進を開始する(十月十一日)」と。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第十章より
)
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