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自界叛逆の罰
この頃より、不思議にも学会・宗門の亀裂が表面化してきた。「有徳王・覚徳比丘」を気どって一体のごとくに見えた池田・細井の両人に疑心暗鬼が生じ、それが抗争にまで発展したのである。
発端は池田大作の憤懣(ふんまん)にあった。彼は、細井管長が浅井と会うたびに心変わりすることに憤りを懐いていた。それが正本堂完成以後、爆発したのだ。
池田は細井管長に思い知らせようと、経済封鎖に出た。総本山の維持は学会員の登山供養によって成り立っている。この「月例登山」を池田は激減させたのだ。たちまち本山には閑古鳥が鳴く。
さらに池田は、正本堂建立一周年記念法要において、法要帰途の細井管長をつかまえ、多くの学会員の見ている前で「思しらず」と罵ったうえ「十億円を学会に寄附してほしい」と威(おど)した。
なぜ、このようなことをしたのか。池田は側近の原島嵩教学部長にこう述べている。「あのとき、なぜ怒ったかといえば、妙信講のとき、猊下はあっちについたり、こっちについたりしたからだ。覚えておけ!」(原島崇著「池田大作先生への手紙」)
まさに妙信講の諌暁が、この自界叛逆をもたらしたのであった。
抗争が始まるや、細井管長のもとには二百余名の活動家僧侶が集まり、「学会と手を切るべし」と気勢を上げた。この反学会僧侶グループが後の「正信会」となる。
このように反学会の機運が宗門に盛り上がるなか、ひとり阿部信雄教学部長だけは、「法主」の動静を池田に密告していた。彼は「妙信講作戦」以来、池田の“御庭番”になつていたのである。
一方、学会内部にも自界叛逆が起きる。池田大作の懐刀(ふところがたな)としてあらゆる謀略を担当していた弁護士・山崎正友と、側近中の側近であった原島嵩教学部長が、揃って池田に反旗を翻した。
ちなみにこの二人は、あの常泉寺の法論において学会代表として出てきた三人の中の二人であった。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第十章より
)
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