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細井管長、急死
学会・宗門の抗争は、「法主」を旗印とする反学会僧侶らの活動により、初めは宗門が有利であった。
池田は形勢不利と見るや法華講総講頭を辞して恭順(きょうじゅん)を装い、反撃の機を窺(うかが)う。
この抗争に性心(しょうしん)を労した細井管長は、病を得て総本山近くのフジヤマ病院に入院した。しかしほどなく回復し、“明日は退院”という昭和五十四年七月二十二日午前五時、突如として激甚の発作に襲われ、急死を遂げてしまった。
「一切は現証には如かず」(教行証御書)と。まことに御遺命違背の罰という以外にはないその臨終であった。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第十章より
)
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