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 日達上人の遷化と学会の反攻、私の内部告発

 だが、日達上人も、御自身の寿命までは完全に読み切れなかった。

 既に昭和五十三年三月から身体の不調を訴えられ、入院を繰り返された。同年五月、私の紹介で聖路加病院に入院された後、月一回、主治医の日野原博士の診断を受けるため、笹川記念館の診療所に足を運ばれていた。毎回お供をし、帰りにいろいろご馳走になるのが、私の楽しみでもあった。

 昭和五十四年五月三日、池田大作が会長と総講頑を辞任することで和解が成立した時、日達上人は、当分は平和が続くと考えられた様子だった。夏には北米布教に行かれ、秋には、できたら引退して法主の座を後進に譲りたいと考えられていた。私にも、この件についていろいろ意見を求められた。

 かつて、この間の事情の一部(あくまで一部である)を筆にしたこともあるが、しかし今ではよほどのことがない限り、本来、信者が相承のことなどに口を出すべきではないと反省しているし、今後もそういうことはないに越したことはないと思っている。
 しかし、日達上人の御遷化後、創価学会の策略で、日蓮正宗分裂という悲劇がもたらされた。その解決のため、また、正しい歴史を後世に残すため、今一度、書き直さなくてはならぬ時が来るだろう。

 昭和五十四年七月、私は、日蓮正宗と創価学会の教導会議に、大講頭兼会議のメンバーとして出席すべく、大石寺に登山した。大石寺に着いた途端、日達上人が病いの床に伏しておられることを知った。
 会議では、創価学会側の、教義や化儀の面での逸脱を改める作業が進んでいないことや、会館の一つを“本尊つき”で外郭法人に譲渡し営利目的の結婚式場にしたことなどが追及され、かなり険悪であった。

 会議もそこそこに日達上人をお見舞いした時、一目でただならぬ病状を感じた。
 「
すぐ、入院なさって下さい
 日達上人に強く勧めたが、なかなか聞き入れられなかった。ただちに主治医の日野原博士に連絡をとったが、医学会で鹿児島にいた博士は、様子を聞くとやはり深刻に受け止められて、「
できるだけ設備の整った病院に入院させて、検査と応急措置を受けること。行事が終わり次第かけつけます、その上で、できたら聖路加病院へ移したい」とのことだった。

 この言葉をタテに再度、日達上人に入院を勧め、ようやく承諾されて、フジヤマ病院へ入院された。
 レントゲン検査の結果でも、腸がまるで動かぬ様子が見られたが、原因はわからなかった。入院後三日目に腸が働き出し、食欲も少し出て来た様子が見え、ご本人も元気を回復したようだった。
 私は数日間、着のみ看のままで側近くいたが、東京に残してきた仕事が気になり、三日日の夕方、帰京した。その深夜、日達上人の容態の急変を告げる電話を受けた私は、日野原博士を起こして乗用車で富士宮市の病院に駆けつけたが、日達上人は既に帰らぬ人となっていた。わずか三時間、目を離した間に、別の世界に発たれてしまった。朝霧高原から白糸滝へ流れる一面の濃い霧の中で、私は呆然と立ちつくしていた。

 その日から、攻守は逆転した。私には苦難の道のりが続いた。時の流れもあり、また、日蓮正宗の首脳を説得し切れなかった自分の力不足を反省するべきであろう。
 翌年六月、私は原島嵩氏とともに、池田大作と創価学会に対して内部告発を開始し、除名処分を受けた。
 妻子を離縁し、身辺を整理し、先祖の墓参りをすませ、最後に日達上人の墓参をした。覚悟を決めて行動したことだが、それでも想像を絶する日々がその後、十数年間続いた。




 山崎元顧問弁護士の筆により、細井管長急逝の様子が知られます。「血脈相承の大事」について力説していたことでしたが、大事を果たすこと能わずして旅立たれたことでした。



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