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--- 正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む ---
第一章 正本堂をめぐる今日までの経緯
細井管長の最初の説法(2)
この説法により、正本堂が御遺命の戒壇と決定されたのであるが、一読してその意味がわかる者が、果しているであろうか。難解なのは、文意が甚深だからではない、矛盾して支離滅裂だからである。この支離滅裂は、ごまかそうとしていることから起きている。
教義上の誤り指摘がこの章の詮ではないから要点のみにとどめるが、この説法の欺瞞は二つある。
一つは、御遺命の「本門寺の戒壇」と、百六箇抄の「本門寺本堂」とは、全く同じものであるにもかかわらず、細井管長はことさら一般信徒の耳なれぬ「本門寺本堂」を強調して、「本門寺の中に戒壇堂を設けるのは間違い」などと云って、本門戒壇の建立を否定している。
二には、百六箇抄の「本門寺本堂」とは、当然広宣流布の暁に国家的に建立される「本門寺本堂」すなわち本門戒壇であるのに、細井管長は広布以前に建てた大石寺の正本堂が、あたかもそれに当るかのごとく思わせている。
一について少し説明すれば、迹門の戒壇といわれる叡山においては、受戒の壇である戒壇院と、信仰の中心道場である根本中堂とが、別々に建てられていることは広く知られている。
しかし大聖人の下種の御大法においては、受持即持戒である。すなわち大御本尊に対し奉る信行が、そのまま戒を持つことに当るから、戒壇即本堂、すなわち広布の暁に戒壇の大御本尊を安置申し上げる「本門寺の戒壇」が、そのまま「本門寺本堂」に当るのである。
ゆえに一期弘法付属書には「本門寺の戒壇」と仰せられ、百六箇抄には「本門寺本堂」と仰せられる。まさに一体の別名なのである。
しかるに細井管長は、一般信徒の耳なれぬ「本門寺本堂」をことさら持ち出して、“本門寺のなかに戒壇堂を設けるのは間違い”などと云って眩惑している。これは国立戒壇を否定することがその目的である。
ゆえに同じ論法の説法を、後日このようにしている。「本宗では戒壇堂と云わない。正本堂に戒壇の御本尊を安置し奉るというのが、これが相伝であります。歴代がそう云われるところでございます」(戒壇論)と。
歴代先師上人は果して細井管長のいうごとく、「戒壇堂」とは仰せられていないか。先師の御文を挙げてみよう。
二十六代日寛上人云く「事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)、五十二代日霑上人云く「事の広布の時、大戒壇堂に掛け奉るべき設として顕わし給い」(両山間答)、五十六代日応上人云く「富士山の麓に天母ヶ原と申すこうこうたる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立有って」(御宝蔵説法本)、六十代日開上人云く「本門戒壇建立の勝地は当国富士山なること疑いなし、又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊今眼前に当山に在す」(御宝蔵説法本)、六十五代日淳上人は「本門の戒壇堂を建立し、その戒壇堂に安置し奉る御本尊が御一代究寛の御本尊であらせられる」(日蓮大聖人の教義)等と、枚挙にいとまがない。「本宗では戒壇堂とは云わない」どころではない。御歴代のすべてが仰せられているのである。
しかるに細井管長はこの事実を隠し、前引の日開上人の御文においては、引用しながら「戒壇堂」をわぎと「本堂」(大日蓬50年9月号)とまで改ざんしているのは、無慚というほかない。
二について云えば、百六箇抄に仰せの「本門寺本堂」と、現在の大石寺の正本堂とは全く関係がない。それを名を共通せしむることにより、あたかも正本堂が「本門寺本堂」に当るかのように思わせることが欺瞞なのである。
またもし百六箇抄の「日興嫡々相承の曼茶羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり」の御文を無理に大石寺の正本堂と結びつけて、「その曼茶羅を現在では大石寺の本堂にご安置することが、もっともふきわしい」ということが云えるのならば、なにゆえ歴代先師は七百年来正本堂も立てず、御宝蔵に戒壇の大御本尊を蔵し奉って来たのであろうか。
百六箇抄に仰せの「本堂」とは、まさに広布の暁の本門戒壇のことなのである。この本門戒壇建立までは、戒壇の大御本尊は宝蔵に堅く蔵し奉る。これが御歴代の御心ではないか。 このことは細井管長自身も曽ては云っていたのである。
「広宣流布を待ってはじめて本門寺を建立、戒壇の大御本尊を安置し奉って事の戒壇建立という事になるのでございます。それまでは戒壇の御本尊をおしまい申し固く護る。先師方が客殿の後ろの奥深くに戒壇の御本尊をお護り申すという事を仰せられて居ります。我が本山の先師方のこれが心でございまして、客殿の後に奥深く戒壇の御本尊を蔵し奉る、しまっておく、広宣流布の暁までしまっておくということになる。戒壇の御本尊はどこまでも蔵の中にあるのでございます。お出ましは、先程から申す所の、いはゆる広宣流布の暁である」(大日蓮34年9月号)と。
ところが池田に唆されて広宣流布以前に偽わりの“本門寺本堂”を建てるに至った。そこで「正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉の仕方はいままでと同じであります。---
須弥檀は蔵の中に御安置申し上げる形になる」などと、矛盾したことを云わざるを得なくなるのである。
このように細井管長の説法は支離滅裂、始めから終りまで矛盾撞着に満ち、誰にもその意がわからぬものであった。
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