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--- 正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む ---
第三章 正本堂の誑惑を破す
広宣流布は終着点のない流れ自体
「舎衛の三億」が顕正会の破折によって通用しなくなったとみるや、池田は次のようなことを云い出した。
「広宣流布とは決してゴールインを意味するものではない。なにか終着点のように考えるのは、仏法の根本義からしても、正しくないと思う。
--- 広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れ自体である」(大白蓮華45年6月号)と。
広宣流布がもし「流れ自体」ならば、いつでも広宣流布といえてしまうではないか。池田のこの論法は、広布の達成すなわち「終着点」を曖昧にするために云い出したものである。
広宣流布には厳然と終着点がある。すなわち「日本一同に南無妙法蓮華経と唱へ」て「勅宣並びに御教書」が申し下されるその一時点こそ、終着点であり、戒壇建立の時なのである。
これをごまかそうとするから「終着点のない流れ自体」などといい、また「一往は正本堂建立が広宣流布の完成といえましょう。しかし再往はこれが終着点なのでなく、新しい広宣流布、すなわち真実の世界の広宣流布の開幕を意味する」(同前)などと、わけのわからないことになるのである。
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